日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。

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今年が48回目の阪神OB会には歴史を感じさせる顔がそろった。吉田義男、安藤統男、真弓明信、和田豊ら監督経験者、江夏豊、掛布雅之、木戸克彦の名選手、桧山進次郎、井川慶らV戦士ら約90人が参加した。

阪神にOB会が発足したのは、1972年(昭47)の開幕を控えた3月12日だった。当時のいきさつを語ったのは、発足時からの幹事で、現在も監査役にある84歳の中村和臣だった。

「最初の話し合いは、オープン戦の試合前に甲子園球場内にあるレストラン蔦で行われました。そこにわたしたちも集められたのです」

中村は54年に熊本工からショートで阪神入り、その後、投手に転向した。61年の現役引退後、現場でマネジャー、球団業務を中心とする球団職員に転身した。

「うちより先に巨人にOB会がありましたから、金田(正泰)さんら先輩方々から『巨人にあるのに、阪神にないのはおかしい』という意見がでた。それで奥井(成一、阪神元二塁手)さんからOB名簿を作成するよう命ぜられたのです」

すでに巨人、中日にはOB会が存在した。特に川上巨人が9年連続リーグ優勝、9年連続日本一の真っただ中、阪神は常に後塵(こうじん)を拝した。

現場はもちろん、OBもその屈辱に闘争心をあらわにしたのだ。OB会設立を提案したのは、阪神初代監督の森茂雄だったという。それに松木謙治郎、藤村富美男らが賛同した。

72年12月10日にホテル阪神で第1回総会を開催。初代会長は松木、副会長が藤村、委員に梶岡忠義、後藤次男、吉田、西村一孔、奥井成一、監事が中村和臣、室山皓之助のメンバーが選ばれた。

あくまでも親睦団体で、監督人事などには関わらない旨を確認しあったともいわれる。会長は松木から、藤村、梶岡忠義、田宮謙次郎、安藤、田淵幸一、川藤幸三と受け継がれた。

2年目の指揮をとる矢野燿大はOBを前に巨人を意識したあいさつをした。対巨人8年連続負け越し。伝統のタテジマのユニホームに袖を通した男たちにとって「打倒巨人」は永遠のテーマだ。(敬称略)