13年前の2007年5月17日、日本ハム田中幸雄内野手が2000安打を達成した。実働22年目での大台到達は最も遅い記録となった。ファイターズ一筋の男は同年に現役引退。コーチや2軍監督などを務め、現在は野球解説者として活動している。

【復刻記事】

遅咲きの男が、思い出の球場で大輪を咲かせた。日本ハム田中幸雄内野手(39)が、楽天12回戦(東京ドーム)の4回に山村から右前打を放ち、プロ野球史上35人目の2000安打を達成。この日3安打で通算2002安打と伸ばした。プロ22年目ながら、シーズン打率3割以上は1度もない。清原(オリックス)桑田(パイレーツ)ら華やかな同期に比べて地味な男は、着実に安打を積み重ねた。プロ入りから18年間を過ごした前本拠地の東京ドームには、大仕事をやってのけた晴れやかな笑顔があった。

耐え忍んだ野球人生と同じように、涙はこらえ切った。心で泣いた。

田中幸 打った後は2度くらい、込み上げて抑えるのに必死でした。一番節目として多かった東京ドームでできたので。

4回の第2打席。山村の138キロ直球を右前へライナーで運んだ。2000本。スタンドは総立ち。ベンチから選手、OBが飛び出してきて祝ってもらった。「うれしさもあるんですけれど恥ずかしかった」。試合後のロッカー室。チームメートと紙コップ入りのビールでささやかな祝賀会。何度も、何度も小さく頭を下げて「ありがとう」と感謝した。

実働22年目。誰よりも長く時間をかけて、名選手に仲間入りした。「いろいろな人たちの支えがあって今の自分がある」。

日本ハム田中幸雄の誕生には、ある人の助言があった。故大社義規前オーナー(享年90)の南九州視察の際に32年間、運転手を務めた都城在住の永岡実人(さねと)さん(70)だ。「都城にいい選手がいるから獲ってください」。毎回会うたびに直訴。「大沢、見てきてくれ」と、指令を受けた当時球団幹部で前監督の大沢啓二氏が足を運び、練習を見て「3位で指名します」と即決したという。

FA権を取得しても、他球団へ移籍しようとは思わなかった。かつて「お荷物球団」の1つと言われたチームと添いとげることを決めた。04年の本拠地移転時に残り99本。ここ数年は引退してもおかしくない成績だった。周囲の支えもあって、4年掛かりで到達。「意識したのはあと100本くらいになった時。ただその後は(試合に)出られない立場だった。一時は達成できずに終わるかもしれないと思っていた」。千恵子夫人にグチをこぼしたこともあった。

97年オフには右ひじの遊離軟骨の除去手術。以後は、入浴中に体を洗っていると電流が走るような痛みを抱えながらの現役だった。痛み止めの注射を打っても激痛が治まらない時もあった。打撃の際、「右手で押せない。左手で引っ張る感じ」。だが左足を上げてタイミングをとる打撃フォームは変えなかった。「いい感じに打てていたので変えたくない」。頑固に全盛期の姿を追い求め、貫き、そして遠回りした。

12月で40歳。自称「飽きっぽいですから」という性格。寒げいこが嫌いだった剣道に、習字など習い事をすべて途中でやめたが、野球だけはやめなかった。

田中幸 入団したころはエラーばかりして迷惑をかけた。それでも使ってくれた高田さん(当時監督、現GM)がいなかったら(球界から)3、4年でいなかったかもしれません。

今年、都城へ帰省した時に、周囲へ誓った。「今年が現役最後のつもりでやる」。決死の思いでたどり着いた。終わってみれば05年6月以来、2年ぶりの猛打賞。「きれいなヒットで飾ることができた。幸せな男だと思う」。1番の支えは「女房ですかね。いつも一緒じゃないですけど。『やっと打ちました』と言います」とほほ笑んだ。優しく、丸みを帯びた22年。誰より長くかかったが、2000本という軌跡を描いた。

◆日本ハム高田GM(入団時の監督)「体格、素質、パワーに恵まれた選手だから使った。誰が監督でも魅力のある選手だったよ」

<両親も観戦>

大記録達成後、田中幸の父親範さん(70)が手提げ袋から1枚の写真を取り出し、見つめた。「幸雄がやったぞ」。声には出さなかったが、額の中でほほ笑む少年にやさしく語りかけた。隣にいた母ミサエさん(67)も、うるんだ目をそっとふいた。

親範さんが明かしてくれた。「小さいころから幸雄には兄と弟の分まで頑張らなきゃと言い続けて生きてきた」。田中幸の兄良幸さんは生後3日で天国へ。弟範夫さんは6歳の時、脳しゅようで亡くなった。親範さんは「最後の1本はどうしても(範夫さんに)見せたかった」と話した。

千恵子夫人は両親の隣で「苦労してきましたからね」と涙が止まらなかった。田中幸は宮崎に帰省すると夫人と連れ立って、真っ先に兄弟の墓参りを欠かさない。姉も含めて4人兄弟で力を合わせた2000安打だった。

▼田中幸がプロ野球35人目の通算2000安打を達成した。日本ハムの選手では張本(2435本)に次いで2人目になる。初安打はプロ1年目の86年6月10日南海9回戦(後楽園)で井上から記録。出場2205試合での到達は90年大島の2290試合に次いで2番目に遅いが、実働年数では大島の20年を抜いて田中の22年が最も遅い達成となった。田中幸が1900本目の安打を記録したのは、出場1977試合目の03年9月24日ダイエー戦。あと100本に迫ってから228試合、足掛け4年の難産だった。

田中幸のシーズン最高打率は95年の2割9分1厘。打率3割を1度も記録せずに2000安打を達成したのは80年柴田、83年衣笠に次いで3人目だ(衣笠は達成翌年の84年に初めて3割を記録)。2000安打を記録した打者のシーズン最高打率を見ると、柴田の2割9分3厘(72年)を下回り田中幸の2割9分1厘が最も低い。田中の通算打2割6分3厘も2000安打以上では最低打率となっている。

※記録、表記などは当時のもの