福岡が生んだ大投手が天国へと旅立った。旧制小倉中、小倉、小倉北のエースとして1947、48年夏の甲子園を連覇した福嶋一雄さんが27日、亡くなった。89歳だった。第2次世界大戦後の苦しい時代を生き、48年夏は甲子園全5試合完封勝利の大記録も打ち立てた。

  ◇    ◇    ◇

戦後日本の苦しい時代に勇気と感動を与えた伝説右腕が、この世を去った。福嶋さんは日本野球連盟九州地区連盟の理事長、副会長を通して、九州のアマチュア野球界の発展に寄与していたが、3年前から「体調が優れない」と漏らし、膵臓(すいぞう)がんに侵されていると明かしていた。その後、自宅を中心に闘病生活を送っていたが、27日に亡くなった。

甲子園では節目で伝説をつくった。戦後、再び甲子園球場での開催となった47年(昭22)に小倉中のエースとして夏初優勝。九州に初めて深紅の優勝旗をもたらした。翌48年、中等学校から高等学校と学制改革されて迎えた夏は、全5試合で完封勝利を挙げた。最後の49年夏は小倉北のエースとして3連覇に臨んだが、準々決勝で敗れた。球場を去る前にバックネット前で土をポケットに入れ、高校球児で最初に「甲子園の土」を持ち帰った選手とされている。帰郷後、当時の長浜審判から届いた速達には「甲子園で学んだものは、学校では学べないもの。ポケットの土に、それがすべて詰まっている。それを糧にこれからの人生を生きてほしい」とあったという。福嶋氏は「普通では教えてくれないものを甲子園が教えてくれた。そこに立つ人間に大きなプラスになる。甲子園はそんなところです」と語っていた。

高校卒業後、早大に進学し4度のリーグ優勝に貢献した。プロ球団からの誘いを断り、八幡製鉄のエースとして地元に戻ってプレー。都市対抗大会の優勝に貢献した。引退後は九州の社会人野球界の発展に全力を注いだ。「甲子園では勝つことが大事なんです。個人的な意見ですがタイブレーク制はどうかと…。決着がつくまで最後まで勝とうとすることが大事だと思うんです」。勝負にこだわった甲子園通算17勝右腕は、2013年に野球殿堂入りした。

新型コロナウイルス感染拡大の影響で、今年は甲子園でのセンバツも全国選手権大会も中止。高校球界にショックが走った年に、甲子園でタフさをみせた右腕が人生のマウンドを降りた。戦後の食糧難を乗り越えた偉大な投手は、来年から球児たちを天国から温かく見守る。

 

◆福嶋一雄(ふくしま・かずお)1931年(昭6)1月6日生まれ、福岡県出身。旧制小倉中3年時の46年夏の甲子園大会はメンバー入りも甲子園で登板なし。その後、小倉中-小倉-小倉北(現小倉)で47年春から49年夏の甲子園に登板し、春夏通算7度出場して17勝(8完封)。47年夏には九州勢として初優勝。48年夏は39年嶋清一(海草中)に並ぶ5完封、45イニング連続無失点の大会タイ記録で2連覇。卒業後は早大、八幡製鉄でプレー。引退後、アマ球界の要職を歴任し、13年1月に野球殿堂入り。現役時代は177センチ、60キロ。