<ネクシィーズグループ社長 近藤太香巳氏>

日刊スポーツの大型連載「監督」。日本プロ野球界をけん引した名将たちは何を求め、何を考え、どう生きたのか。第1弾は中日、阪神、楽天で優勝した星野仙一氏(享年70)。リーダーの資質が問われる時代に、闘将は何を思ったのか。ゆかりの人々を訪ねながら「燃える男」の人心掌握術、理想の指導者像に迫ります。

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エネルギー環境事業や電子メディア事業などを手がけるネクシィーズグループ(本社・東京)で代表取締役社長兼グループ代表を務める近藤太香巳氏(53)は、星野仙一氏(享年70)の情に接した1人だった。人を育てる勇気、愛情を知った。

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ネクシィーズ近藤がもっとも熱っぽく星野の魅力を語ったのは、野球ではなかった。人脈でも、ビジネスでもない。それは星野が急逝する前年の17年12月、都内ホテルで同社の創業30周年イベントを開催したときの出来事だ。

「その日はご招待してなかったのに監督が『お前の晴れ舞台やから、いくぞ!』と来てくれたんです。お祝いの言葉を述べているとき、ちょっとおかしいなと思った。後で聞くと車椅子に乗らないといけないくらいの腰の痛みがあったようです。でもそんな姿を見せられないと車椅子に乗らず10分間も祝辞を述べてくれました」

星野は選手に対して「叱る」「褒める」のタイミングを見極めた。それでいて「常におれはお前のことを見てるよ」と思わせながら選手の心をつかむ。近藤は社員とのコミュニケーションを円滑にする目的で食事会を開き、成績優秀者制度「N1グランプリ」や新卒説明会も自ら行っている。

「僕は優しい上司というのをあまり信じないんです。ほんとに優しい上司は、その人のことを思って叱ったりする人。厳しい人って本気ですから。でも時にグッとくる優しさを出す。そこには心がないとできません。リーダーというのは、怒っても嫌いにならんぞと思わせる。監督はそういう人でした」

19歳で起業し、グループ従業員1000人のトップに立つ。全国4300人以上の会員を有する経営者交流団体「パッションリーダーズ」代表として活動。星野から「お前の会社は仲が良く、競い合い、支え合って、それでいて戦っている。いいチームを作ったな」と言われたこともあった。

「今どきの若者はとか、時代だからとかいうのが大嫌い。そういうことを言った時点で理想を失うと思うんです。おれたちはプロだと意識を強く持ってほしい。だから当社は新入社員と言わず野球と一緒でプロ1年目というし、ボーナスでなく利益還元金といって渡すんです」

星野とタッグを組んだ「ホシノドリームズプロジェクト」で若手アスリートを支援してきたが、星野チェアマンが不在になるとスポンサーが減少した。近藤はネクシィーズプロジェクトのCSR(社会的責任)として星野の意志を受け継ぎ、運営を継続している。

亡くなる前、近藤の携帯電話に普段は言われたことのない「ありがとう」とメールが入った。

「今のコロナ禍においても、感染者数が多くなってきたと連日メディアが報道するだけでは、政治、経済、社会全体のスピードが落ち、進化しないし生き残れない。企業には、発想も、ビジネスモデルも大事です。でも何が一番大事ですか? と聞かれたら、人なんです。人を育てる勇気と愛情を持つ。星野さんにはそれがすごくあった。だって僕がこんなにもあの人のことが大好きだから」

その熱い言葉には、逆境を乗り越えてきた男の矜持(きょうじ)があった。【編集委員・寺尾博和】(敬称略、つづく)

◆星野仙一(ほしの・せんいち)1947年(昭22)1月22日生まれ、岡山県出身。倉敷商から明大を経て、68年ドラフト1位で中日入団。エースとしてチームを支え、優勝した74年には沢村賞を獲得。82年引退。通算500試合、146勝121敗34セーブ、防御率3・60。古巣中日の監督を87~91年、96~01年と2期務め、88、99年と2度優勝。02年阪神監督に転じ、03年には史上初めてセの2球団を優勝へ導き同年勇退。08年北京オリンピック(五輪)で日本代表監督を務め4位。11年楽天監督となって13年日本一を果たし、14年退任した。17年野球殿堂入り。18年1月、70歳で死去した。

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