日刊スポーツは2021年も大型連載「監督」をお届けします。日本プロ野球界をけん引した名将たちは何を求め、何を考え、どう生きたのか。ソフトバンクの前身、南海ホークスで通算1773勝を挙げて黄金期を築いたプロ野球史上最多勝監督の鶴岡一人氏(享年83)。「グラウンドにゼニが落ちている」と名言を残した“親分”の指導者像に迫ります。

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鶴岡の監督生活がスタートした1946年(昭21)は終戦直後の混乱期だった。後に南海に変わった「近畿グレートリング」を率いたのは29歳で、指揮を執るだけでなく、スカウト、食料調達、米の配給係までをまかなった。

7シーズンは選手兼任監督で、53年から専任。23年間の監督生活でこだわったのが、盟主巨人との戦いだった。48年はエース別所毅彦を引き抜かれた。53年は同郷、広島・呉の後輩である広岡達朗に声を掛けながらも巨人にさらわれた。

GM(ゼネラルマネジャー)の役割もこなした。人材を見極める眼力、スカウティングに手腕を発揮。巨人、阪神、毎日などと激しい争奪戦の末に獲得した例に、55年に小説「あなた買います」のモデルになった穴吹義雄(元南海監督)がある。

その55年秋、大阪球場で行われた東京6大学と関西6大学の対抗戦で初めて見たのが立大の2年だった長嶋茂雄だ。お目当ては同大学で外野手の大沢啓二(元ロッテ、日本ハム監督)だったが長嶋のフィールディングに目がとまった。

鶴岡は立大エースの杉浦忠にも執着した。南海入りした先輩にあたる大沢を使って、杉浦と長嶋に小遣いを渡しながら口説き落とす。契約金も提示し、本人から「お世話になります」と返事をもらっている。しかし突然、長嶋から断りの連絡が入ったのだ。ある取材関係者は証言した。

「巨人はいろいろ長嶋家を揺さぶってひっくり返した。それで長嶋さんは巨人から『鶴岡さんにお金(小遣い)を返した方がいい』とアドバイスされて、杉浦さんと一緒に東京の旅館で会った。でも親分は長嶋さんを怒鳴りつけるどころか『就職祝いじゃ』と激励して受け取らなかった。長嶋さんは涙を流したようです」

鶴岡は裏切られたにもかかわらず長嶋に懐の深さをみせた。一方の杉浦に「スギ、お前も巨人か?」と問い掛けると、こう答えたという。

「心配ですか? 男に二言はありません。ぼくは1度決めたことは変えませんから…」

南海の売りになった「100万ドルの内野陣」の中にいたのが、後にキャプテンに指名された岡本伊三美(元近鉄監督)。鶴岡に代わって二塁に入った名手の1人だった。

「今では握手を交わすのが当たり前だが、スギ(杉浦)はプロ初勝利しても親分から声を掛けてもらえなかった。普通なら立教大から入ってきて初めて勝ったんだから出て行って祝福するじゃないですか。スギも親分を捜した。でも親分はスーッとロッカーに消えた。後で聞くと『1つぐらいでな』とおっしゃったらしい。スギも私に『プロって厳しいですね』と言ってきた。監督としてなかなかできんことですよ。『1勝ぐらいで喜んだのは大間違いでした』と感じたスギも偉かった」

鶴岡はプロの厳しさを無言で教えた。1年目の58年に27勝をマークした杉浦だがチームは2位。翌59年の南海は長嶋のいる巨人と劇的な日本シリーズを演じるのだった。【編集委員・寺尾博和】

(敬称略、つづく)

◆鶴岡一人(つるおか・かずと)1916年(大5)7月27日生まれ、広島県出身。46~58年の登録名は山本一人。広島商では31年春の甲子園で優勝。法大を経て39年南海入団。同年10本塁打でタイトル獲得。応召後の46年に選手兼任監督として復帰し、52年に現役は引退。選手では実働8年、754試合、790安打、61本塁打、467打点、143盗塁、打率2割9分5厘。現役時代は173センチ、68キロ。右投げ右打ち。65年野球殿堂入り。監督としては65年限りでいったん退任したが、後任監督の蔭山和夫氏の急死に伴い復帰し68年まで務めた。監督通算1773勝はプロ野球最多。00年3月7日、心不全のため83歳で死去。

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