プロの世界で活躍した野球人にセカンドキャリアを聞く「ザ・インタビュー~元プロ野球選手たちのセカンドステージ」。

今回は中日投手として活躍。引退後はサラリーマン生活なども経験。その後に指導者、野球評論家として第二の野球人生を切り開いた権藤博氏(82)を特別編としてお届けします。【聞き手・安藤宏樹】

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-野球評論だけでなく今もさまざまな活動をされています。今春は沖縄でキャンプ取材を終えると高知県に移動。野茂英雄さんが設立した「NOMOベースボールクラブ」(兵庫県豊岡市)のキャンプに参加して指導されています。

権藤氏 ハッとする瞬間を求めて、だね。解説や評論の仕事で球場に行ってもユニホームを着ているつもりでグラウンドを見てますから。何かに気づかせてくれる瞬間は現場にこそありますから。

-長きにわたるキャリア形成の源泉はそこにあるのでしょうか。

権藤氏 自分ではわからないですけどね。

-30歳で現役引退。中日に2軍コーチとして復帰されたのが34歳です。

権藤氏 引退するときに球団が用意してくれたポストはマネジャー。これがスカウトだったらそのまま球団に残っていたと思います。マネジャーだと現場に近いから余計な口出し、しちゃうじゃないですか。自分の性格はわかってますから(笑い)。

-球団を離れた期間には会社勤めもされています。

権藤氏 野球人生をまっとうさせてくれた時間になりました。野球解説の仕事といっても月に2、3度。自然とゴルフに出かける機会が増えたりして、知らぬ間に道を踏み外しそうになっていたんですね。そんな私にある会社が声をかけてくれてお世話になりました。弁当持参で伝票整理や棚卸しなどの仕事をさせてもらってね。気づかせてもらったことはたくさんありました。そういう生活を続けている中で監督の与那嶺要さんから「ゴンは熱心だから」といってもらって中日に復帰するわけですが、この期間が第2の野球人生に向けての転機になったのは間違いないですね。

-引退時に決意していたプロ野球の現場に復帰。その後は順風満帆、だったのでしょうか。

権藤氏 そんなわけないじゃないですか。すぐにコーチとして頭打ちですよ。そこでアメリカで勉強させてほしいと球団にかけあってね。2軍コーチとして3年目が終わったころだったかな。メジャーの試合を見て、マイナーリーグを視察した。そこで次々とハッとする瞬間に出会うわけです。ルーキーリーグで下手な選手に付き添い、丁寧な指導を淡々と続ける老スカウトの姿。一方で選手自身が気づくまで我慢することの大事さを懇々と説かれた。いかに自分が上から目線で選手に接していたかということを知らされたわけです。頭をハンマーで殴られた思いでした。

-まさにハッとする瞬間だったわけですね。

権藤氏 そういうことです。それ以降、常にハッとした瞬間を求めて現在に至っているわけですよ。

-NOMOベースボールクラブで指導されたりするのもその瞬間を求めている。

権藤氏 彼(野茂)はスケールが大きい。よくぞ自分の力でチームを立ち上げ、今も継続していると思います。社会人野球(新日鉄堺)が自分を育ててくれたという感謝の気持ちがそうさせているのだと思いますが、簡単にできることじゃないですよ。

-プレーヤーとして成功した選手、失敗した選手、野球界を離れ第2の人生で輝いた選手などさまざまなケースを見てこられたと思います。どこかの共通する分かれ目などがあったりするのでしょうか。

権藤氏 そんなのわかりませんよ。プロの世界に入ってくる選手はすべてすごいんです。成功、失敗の分かれ目がどこにあるのか。なにをもって成功と言えるのかは私にはわかりません。ただ、投手として結果を出したいのであれば「ストライクを投げなさい!」。打者であれば「バットを振りなさい!」しかないですよ。つまりは「戦い続けるしかない」ということです。

-どういう形でプレーヤーを終えたとしても、その後の人生を生きていく上でも「戦い続けるしかない」という覚悟が必要だと。

権藤氏 私はそういう思いでここまで生きてきましたし、これからもそうでありたいと考えています。

◆権藤博(ごんどう・ひろし)1938年(昭13)12月2日生まれ。佐賀県出身。61年、ブリヂストンタイヤから中日入団。同年、35勝で最多勝、新人王などを獲得。翌62年も30勝で2年連続最多勝。登板過多の影響で野手転向、投手復帰などを経て、69年に現役引退。中日、近鉄、ダイエー、横浜で投手コーチを歴任。98年、横浜監督就任1年目でリーグ優勝と日本一に輝く。2012年中日投手コーチに復帰、17年WBC日本代表投手コーチ。現在、日刊スポーツ評論家。