阪神で強打者として活躍したハル・ブリーデン氏が、3日に死去していたと米国紙のオールバニ・ヘラルド(電子版)が10日までに報じた。76歳だった。死因は明らかになっていない。「赤鬼」の異名を持ち、来日1年目の1976年(昭51)に40本塁打を放つなど、田淵、掛布、ラインバックらと強力打線を形成。4番も務め、3年間で79本塁打を放った。当時の監督で日刊スポーツ客員評論家の吉田義男氏(87)が元主砲を悼んだ。

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わたしが初めて阪神監督に就任した2年目の1976年(昭51)に入団してきた新外国人が、ブリーデンとラインバックでした。その年、チームは2位に甘んじましたが、最後まで巨人と優勝争いをしたのは、左右の助っ人パワーが大きかったです。

新外国人にとって、いかに早く異国の環境になじむかは大切なことです。ブリーデンは米大リーグのエクスポズでプレーしていたので、自尊心も強かったはずです。でも来日初年度からチームに溶け込んだのは、監督としてうれしいことでした。

珍しい左投げ右打ちの一塁手でした。前年のファーストは身長2メートル以上のアルトマンで、ショートの平(藤田)、サードの掛布(雅之)からの高い送球を捕ってくれました。一塁の“受け皿”としてのブリーデンは、「前後」や「左右」が得意なタイプでした。

打率は低かったけど、初年度が40本塁打、2年目も37本塁打を記録したようにバットで貢献しました。でもサードには後に外野に転向する佐野(仙好)もいたし、平、掛布らの内野手が一流になっていった背景には、アルトマンと同様、送球を逃さない一塁ブリーデンの存在がありました。

まるで自分がチームリーダーであるかのように、積極的にチームを盛り立ててくれました。長期間にわたって監督をしていると、ひそかに外国人との相性は感じてしまうものです。その点、わたし個人としてはウマが合ったというか、印象深い1人でした。

(日刊スポーツ客員評論家)

◆ハル・ブリーデン 1944年6月28日生まれ、米国ジョージア州出身。71年にメジャーデビューし、カブス、エクスポズを経て76年に阪神入団。1年目に40本塁打を放ち、77年にはオールスターに出場。ラインバックとともに強打の助っ人として活躍。78年に故障し、途中退団した。引退後は故郷ジョージア州リー郡で保安官を務めた。現役時代は188センチ、91キロ、左投げ右打ち。大リーグでは5季プレーし、通算274試合で打率2割4分3厘、21本塁打、76打点だった。