岡田監督の指揮官としてのキャリアは99年から始まった。最初の肩書は2軍監督兼打撃コーチ。03年の星野政権下で守備走塁コーチを務めたが、それ以外はチームの「将」として重圧と戦ってきた。昨オフには「監督はしんどい。もうええやろ」と漏らしている。苦悩は指揮を執るものの宿命と言えるが、年を追うごとに責任が増大したことも疲労困憊(こんぱい)の要因だろう。

阪神では07年からヘッドコーチ制を採用せず投手、野手それぞれに「チーフ」を置いた。ヘッドコーチは、担当コーチと監督の架け橋の役割を担う。「まとめ役」がなくなったことで、監督自らで判断し、決済することが多くなった。例えば、右手を骨折した福原の復帰。ファームで結果を残していなかったため、時期尚早という声もあったが実績を見込み、9月に合流させた。しかし本調子には遠く、2度先発しただけでローテーションから外れた。

逆に、2軍で奮闘していた石川の昇格は遅かった。担当コーチの意見が反映されにくくなり、チームは活力を失った。打線の低迷を聞かれたときに「おれは打撃コーチじゃない」という指揮官の言葉は、コミュニケーション不足を感じさせるものだった。

辞意を固めた後、ある球団首脳は後悔の念をにじませた。昨オフにヘッド制の再導入を監督に打診したが「大丈夫です」と断られたという。「やはり、しっかりと話ができる、まとめ役が必要だった」。岡田監督の手腕は球団内でもかなり高い。坂井オーナーは「監督としての力は本当に素晴らしい。後半戦も非常にうまいやりくりだった」と采配を絶賛している。確固たる野球観を持ち、選手起用にも迷いがない。ときには的確なアドバイスで打者を打撃不振から救うなど、指揮官の能力は球界でも屈指だろう。しかし、それ故に「依存度」は高まり過ぎた。

就任6年目の来季に向け、球団ではヘッド制の復活を再び検討していた。その矢先の辞任決意だった。【阪神取材班】