いったんは「本塁打」と判定された八木の打球は、サヨナラの生還を許されない「エンタイトル二塁打」にひるがえった。後続が倒れて延長戦に突入。延長15回裏にも2死満塁と攻め立てた。この最後の好機は山脇光治が三振に倒れた。痛恨の引き分け―。プロ野球史上最長の試合時間6時間26分の末、12日の午前0時26分にゲームセットが告げられた。

優勝争いは85年日本一以来、7年ぶりだった。勝てばヤクルトを抜いて首位に立つはずだった試合で、八木はヒーローのお立ち台に登り切れなかった。今は阪神2軍打撃チーフコーチを務めるスラッガーも、この92年、大きな転機を迎えていた。

八木 レギュラーになって3年目のシーズンでした。そのシーズンを前に、甲子園のラッキーゾーン撤廃が決まった。球場が広くなるということは、打者にとってはしんどくなるということ。ぼくが求められているのは長打力。しかし昨年までなら本塁打になっていた打球がスタンドに入らず、アウトになる。意識するまいと思っても、誰かが「昨年までならホームランになっていた打球が何本かあったな」と声をかけてくる。これはきつかった。長打を期待される打者にとっては死活問題でした。

前年は球宴までの74試合で12本塁打。それが92年は球宴までの77試合で9本塁打、打率は2割1分9厘だった。打撃成績とは裏腹に、八木は和田豊、亀山努らとファン投票でオールスターに選ばれた。チームの首位争いの産物だが、心苦しくてたまらなかった。「ここにいていいのか」と悩みながら、本拠地甲子園での第1戦に臨んだ。

八木 相手は日本ハムの白井投手だったと思います。打席でタイミングの取り方に失敗して、とっさの判断で左足を少し引いてから上げたんです。普段のぼくは、そのまま左足を上げていた。それを少し引いてから上げるようにした。そのときに、ボールがよく見える ! と感じた。その打席は四球でした。で、千葉マリンでの第2戦も同じ打ち方で打ってみたら結果が出た。2安打3打点でした。

リーグ戦再開の初戦、7月24日中日戦(甲子園)で10号を放った。8月の1カ月で10本塁打を量産した。

八木 正直、ぼくは前半戦の成績で球宴に出ていいのかなと思っていた。しかし辞退などしたら選んでくれたファンに申し訳ない。なんとか活躍して恩返しできればと思っていた。そこで大事なものを得ることができた。シーズン再開後にその形で打つようになって結果もついてきました。

9月11日の9回2死一塁。大観衆からサヨナラを期待され、あと1歩…という結果は残した。

八木 球宴以来、調子が落ちたときに足の位置を変えたり、いろいろ試すようになった。バッティングカウントでストレートもスライダーも待てるようになった。技術が身についた。

ヒーローになりきれなかったシーズンに、八木がつかんだもの。それはその後、03、05年の優勝を支え「代打の神様」と呼ばれた長寿の技術につながるものだった。【堀まどか】(敬称略)