プロ野球広島の初優勝時の監督を務めた古葉竹識(こば・たけし)さんが12日に亡くなっていたことが16日、分かった。葬儀、告別式はすでに近親者のみで執り行われた。85歳だった。熊本県出身。

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古葉さんは知った顔を見つけると、必ず握手を求めた。「久しぶり、元気でしたか」。03年に市長選に出馬した経験もあってか、握手が第一のあいさつだった。年を重ねても、握る力は強かったあの感触を思い出す。

東京国際大の監督になっても広島時代と同様、ベンチの端っこ、バットケースに隠れるようにして立ち続けた。なぜあの場所か、立ち続けるのか、聞いたことがある。「あそこは、投球はもちろん、どこにボールが飛んでもよく見える。ボールが今どこにあるか、ずっと見ているんです。勝負をしているのに座ってはいられない。座っている監督に『なんで?』と聞きたいぐらいですよ」が答えだった。

済々黌(熊本)から専大に進んだが、中退して社会人の日鉄二瀬入りした。1年の夏、故郷に帰った際、母親の苦労を聞いて決めたという。高校2年時に父親を亡くしていた。「私は寮費を免除してもらっていたし、当時のお金で月3000円あれば生活できた。そのお金をつくるのに、かあちゃんは苦労したんで」。プロ入りを目標に、社会人への転身を決めた。

広島で初優勝したときの背番号が72。この数字が好きだった。東京国際大の監督に就任した際「私のベスト体重も72キロ。現役時代も今も変わらないんです」と話した。大学でも72にするつもりが、連盟規定で50になった。就任4年目の11年春、リーグ初優勝。グラウンドを訪ねると、監督がグラウンド間の移動に使う軽トラックが、ナンバー72をつけていた。【米谷輝昭】