西武への入団直後、中崎氏はプロ野球の世界に足を踏み入れた喜びから、胸が高揚した。周りを見れば、投手では西口文也、石井一久、涌井秀章、岸孝之らスター選手たち。つい最近までテレビの中にいた人がいる場所は、18歳の青年には楽園だった。

「やばいところに来たというのはなかったですね。どっちかというと、すごいワクワクする気持ちの方が強かったです」

フワフワした気持ちで、毎日が新鮮だった。自身の中にはドラフト1位のおごりも無ければプライドもなかった。ただ純粋に野球が楽しかった。

夢のような日々の中、唯一、避けようとしたのは、同期で2位指名の野上亮磨からのアドバイスだった。野球への取り組む姿勢や社会常識、社会人としての心構えなどを事あるごとに指摘された。

「野上さんは社会人野球を経験されていて、社会の厳しさや野球の苦しさも知っていて。僕の姿を見て、そんな甘くないぞ、自覚しろよっていうメッセージだったんですけどね」

返事は「はい」と言いながら、「内心では素直に聞けない自分もいて…」と心の中で聞き流したことも1度や2度ではなかった。

「ドラフト1位の責任、重大さを感じていなかったんだと思います。どこかで、自分の中でいつか結果が出るだろうと。先のことばかりを見ちゃったんですよね」

オフに涌井らと自主トレするなど、プロでの年数を重ねるうちに事の重大さに気付いた。後悔ばかりが募ったが、もう遅かった。

「後になって、野上さんが言っていたことは、こういうことだったんだなと。後悔ですよね」

入団直後、楽しくてしかたなかった野球への思いはいつしか悔しさで占められた。

「結果が出せてなかったので、楽しいという思いはもうなかったです。とにかく活躍して、1年でも長く、もっとチームのためにというのは強くなっていたと思います」

周囲に耳を傾ければ、批判も当然聞こえた。

「『何だこの選手、こいつが1位かよ』っていう声も聞きましたけど、何を言われても自分が悪いなと。現に結果を出せてなかったので。結果を出して、見返してやろうとはずっと思ってましたけど」

15年夏に左手の血行障害の手術を受け、崖っぷちの中で迎えた16年シーズン。生き残りをかけ、生み出したのが、「カメラの画面から消える」と注目を浴びた衝撃の新フォームだった。(連載3に続く)

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