日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。

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野球殿堂入りした山本昌が恩人に挙げたアイク生原の名前を聞いてロサンゼルスでの日々をなつかしく思い出した。中日から野球留学した左腕の開花にドジャース・オーナー補佐としてかかわったアイク夫人の喜美子と墓参したときのことだ。

1992年10月26日に息を引き取ったアイクの墓はロサンゼルス郊外にあった。ド軍オーナーだったオマリー家代々の隣に眠る光景は、いかに名門ドジャースを支え、日米親善に尽くした事実が偉大だったかを物語っている。

その後、喜美子に連れられたのは、いつも夫妻で訪れたレストランだった。異国らしい背の高いカウンターチェアに並んで座った。いつもこの席でフライドチキンをオーダーしたのだと教えられ、同じものを食べた。

ドジャース1Aでユニホーム洗濯、靴磨きなどクラブハウス係の下働きから球団の要職に上り詰めた。02年野球殿堂入り。日米野球の架け橋としてクローズアップされるが、あまり知られていないアマチュア時代のアイクを証言する人物と向き合った。

福岡・田川高から早大を経てリッカーミシンに所属したアイクは、後に亜大監督に就く。当時マネジャーだった崇徳高(広島)で甲子園に出場した村本勝(78)は「野球部に入ってすぐに寮を大脱走したが連れ戻された」と笑う。

「アイクは近くの公団住宅で暮らしていた。息子が電車好きだったから、わたしがよく抱っこして遊ばせた。野球は早大監督の石井連蔵さんの影響を受けたから厳しさを超えていた。寮は朝6時起床、グラウンドを30周走る先頭に立つのはアイクだった。遅れるとランニングが続いた。バットのグリップでたたかれ、石ころの上に何時間も正座させて説教するから、買い物帰りの主婦がかわいそうと野球部に抗議にきた」

監督に就任した際は3部だったが、1964年(昭39)春に1部昇格。村本は「あのアイクが試合後に泣いたから、翌朝の新聞に『鬼の目に涙』と書かれたのを覚えている」という。

「アイクは精神野球で、大リーグの指導法を学ぶのに日本を飛び出した。選手を集めて『おれは米国に行く。後任に矢野(祐弘)さんという男がくるから頑張ってほしい』とあいさつした。プロ野球創立に尽力し、ウォルター・オマリー会長と親交の深かった鈴木惣太郎さんにドジャースを紹介してもらうのに自宅に通ったが最初は門前払いだった。それで家の前に正座して一夜を明かしたらしい。この男なら信用できると認められ、ドジャースのオマリー宛に紹介状を書いてもらってつながったんだ」

村本は生前のアイクが書き下ろした著書の出版パーティーでもらったドジャースの帽子を大事に持っている。そこには本人と長嶋茂雄のサインがあった。「信念の人だったね」。夢を追いかけた日本人は、成功に近道がないことを教えてくれている。(敬称略)