高校野球の強豪・日大三高は、14年当時、女子マネジャーを受け入れていませんでした。春風が運んできた、小さな奇跡をつかんだ少女の物語。新生活を控えるすべての皆さまへ送ります。(年齢は当時)【井上真】
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高橋真央さん(15)は坂の上にいた。下ったところに野球部寮、向かい合って野球場。監督が来客を見送る。そして練習を見はじめた。坂の上と下には2人だけ。
マネジャーを志願するならいまだ。なのに、動けない。あこがれの監督を前に足がすくむ。千載一遇の時間が過ぎていく。数秒が何分にも感じる。立ち尽くしたままチャンスを逃すと思ったその時、風は吹いた。
坂の両端の植木には水たまりを吸うスポンジが何枚も干してあった。風に舞い坂道に落ちる。「あっ、拾わなきゃ」。15歳の時間が動きだす。駆け降りて拾い集め、監督に手渡した。
「ありがとう」。日大三高野球部・小倉全由監督(57)はそう言って受け取った。
意を決して女子マネジャーで入部したいと訴える。小倉監督はじっと耳を傾けた。「日本語になっていない私の話を、最後まで静かに聞いてくださった。ああ、やっぱり、小倉監督はこういう方なんだ。私は絶対にこの監督さんのもとで高校生活を送りたい」。緊張で声は出ない。言葉にならないが、心の中では決断が正しかったことが、鮮やかにつながっていく。
途切れ途切れの話しを聞き終え小倉監督は答えた。「ごめんな。女子のマネジャーはとっていないんだよ。学校の応援として見守ってくれるか」。優しい口調だが、断られた。「やっぱり、だめだった」。おじぎをして坂道を帰る。涙が流れた。心に誓った。「断られるのは分かっていたこと。私は、あきらめない」。
練習を遠くから見学する日々がはじまる。球場に隣接する道路から、練習を見る。見る、見る、ただ、いちずに、白球を追う球児を見詰める。帰路につくまで一心不乱に。
4月、5月、6月。3カ月が過ぎ季節は初夏。三木有造部長(40)が声をかける。「ちょっとおいで」。小倉監督は不在。三木部長は坂の下に手招きして、高橋さんの決意と向き合った。そして言った。「その気合、いいね、いいよ。監督に言っておくから」。
野球部のマネジャーになるため、両親を説得し、塾の反対を押し切って入学した。小倉監督に震える思いで入部を直訴、断られても練習を見続け、懸命にアピールした。15歳のただひたすらにいちずな姿を、三木部長はこれ以上見て見ぬふりはできなかった。
必ず人生の岐路は訪れる。高橋さんは、自分でその分岐点を引き寄せた。三木部長が動き、彼女の視界は、開けていく。
小倉監督を知ったのは小田原での小学生時代だった。センバツ4強の日大三高を見て「強いな」と感じた。本で小倉監督の目指す野球を知る。「1―0」で勝つよりも「10―0」で勝つ野球を。その考え方に「かっこいいな」と思いは募った。
2011年、中1の夏、日大三高は圧倒的な打力で勝ち進む。小倉監督にとって2度目の全国制覇。テレビ画面から伝わる人柄に夢中になった。「かっこいい。この人の元で何かできたら、私の人生は変わる。いい経験ができるはず」。
中学での成績はよく、高校は進学校が見えていた。「私も姉が進んだ県立高に進むのかな?」。それでも、頭のどこかに小倉監督の存在があった。
中3秋。塾に出す進路提出書には、必ず私立の4番目に日大三高と書き込んだ。学校説明会があれば、母に「行かないよ。行かないけど、説明会には行ってみたい。野球部の練習も見たいから」と、本心を隠しながら少しずつ両親の思いとの差を詰めた。
内申は2教科(4)を除き5。塾の先生からは県内の進学校をすすめられた。それでも、打ち勝つ日大三高への思い、小倉監督へのあこがれは断ち切れない。
とうとう決定的な出来事が起きる。塾の友達だった浜本広幸さんが2学期のある日、そっと高橋さんにだけ、教えてくれた。
「俺、三高野球部に決まった。誰にも言わないで」。
志望校をしぼる時期。浜本さんの言葉に、心は決まった。「その言葉で、遠いあこがれの存在だった小倉監督、日大三高が、一気に手の届くところのような気がしました」
受験は目前。決心した高橋さんは母に本心を打ち明ける。母は娘の心を理解していたように言った。「お父さんにきちんと自分でお願いしなさい」。
はじめて父に本当の気持ちを伝えた。
高橋さん 日大三高に行かせてもらえませんか?
父 もう、気持ちは決まってるんだろう?それなら、行かせて下さいだろ。
高橋さん 日大三高に行かせてください。
父 マネジャーになれても、疲れたとか、弱音は吐くな。日大三高に進んで良かったと思える3年間にしなさい。
「私は兄が2人、姉が2人いる5人兄弟の末っ子でした。今まで兄、姉のまねをしてきましたが、初めて自分はこれをやりたいんだと思えることに出会えました。それが小倉監督の元でマネジャーをすることでした」。
マネジャーとして入部できるかどうかも分からない。でも決断した。もう引き返せない。断られることも、見学を続けることも覚悟の上だった。
「1年間お願いをして、それでもダメなら、あきらめよう」。
必死な高橋さんを、浜本さんも見ていた。しかし、声はかけない。高橋さんも話し掛けない。自然とお互いを気遣っていた。
高橋さん 浜本は私がどうしてもマネジャーになりたいことをよく分かってくれていました。ですから、監督さんや部長さん、コーチの方に何か言って、それが逆に私の不利益になってはいけないと思ってくれたんだと思います。だから、私に話し掛けなかったんだと。私も、自分の希望をかなえた浜本を頼ってはいけないと最初から感じていました。だから、何も話しませんでした。
15歳にして友達の思いを察して頼らず、たった1人でアピールを続けた。
三木部長に声をかけられ、事態は動く。後日、小倉監督と話し合った三木部長に言われた。「マネジャーをすることで、イヤなことがあるかもしれない。それも含めて親御さんにも正直に話して、それでも許してもらえたなら、言いに来なさい」。数日後、小倉監督と母が寮の食堂で面談した。
季節は初夏。願いは、かなった。
マネジャーに没頭する生活が始まった。「できることを探すのが楽しかったです」。6時起床、21時帰宅。ソファに倒れ込み仮眠。0時に起きて宿題。そしてまた6時に起きた。
高橋さん 本当は体力的には大変でした。でも、いらないくらいの存在だった私を、監督さんも、三木さんも認めてくれて、褒めてくれて、ありがとうと言ってくれて。私はこの監督さんと日々いられて本当に楽しかった。ウキウキしたというのとはちょっと違うんです。なんと言えばいいのでしょう?
少し考えてから晴れやかに言った。「小倉監督の元で、すべてを頑張りたい、どんなことでも全力でやりたい、そういう気持ちで生きた毎日でした」。
過去に女子マネジャーがいた代もあったが、選手は女子マネジャーに慣れていなかった。選手には話しかけられない。1人で考え、1人で動いた。
常に声をかけたのは三木部長だった。「いいよ真央ちゃん、いいよ真央ちゃんって、言ってくださって。そうしたら、少しずつ選手も声をかけてくれるようになって。今思えば、三木さんはみんなが声をかけやすいようにしてくださっていたんだと思います」。
マネジャーの大きな役目に、試合での場内アナウンスがある。教えてくれる先輩がいないため、三木部長が明大八王子高で練習できるようはからってくれた。アナウンスの基本を学び、公式戦の場内アナウンスを任されるまでに成長した。
高1の初夏から高2へと、マネジャーとして夢中の日々が続いた。そして最終学年、勝負の高3夏、西東京大会が始まった。
2016年7月25日、神宮球場での準決勝。第1試合は日大三―東海大菅生、第2試合が創価―八王子。高橋さんの担当は第2試合だった。当日の朝、思いがけない展開により、日大三高のアナウンスをすることになる。
朝、神宮球場に入ると、連盟の先生方から言われた。「せっかくなんだから、日大三高のアナウンスを担当したら?」。思いもよらない言葉だった。
甲子園をかけた西東京大会の大詰め、準決勝で仲間の試合をアナウンスする。相手は東海大菅生。3年の高橋さんは、この日が高校生活で最後のアナウンス。想像もしないことだった。
固まっていると、周りの先生方も好意としてすすめてくれた。「大丈夫だから」。こんなチャンスは2度と来ない。迷う時間はない。突然押し寄せてきた流れに、高橋さんは無我夢中で飛び込む。
西東京大会では神宮球場を除く7球場から女子マネジャーの代表が選ばれる。その7人が準々決勝4試合、準決勝2試合、決勝の計7試合の担当に振り分けられる。八王子上柚木球場の代表は高橋さんだった。割り当ては準決勝の第2試合。その第1試合が日大三―東海大菅生だった。
ものすごい緊張は予想されたが断る理由はなかった。「念願の神宮でアナウンスができる。それに目の前でみんなが頑張っている中、唯一マネジャーが表に出ることができるアナウンスで、私もひとつの集大成が出せる。みんなと一緒に頑張れる空間だ」。
同時に、明大八王子の井科さんの存在を考えた。アナウンスを教えてくれた大きな存在だった。「本当は私よりもアナウンスの技術はずっと上手でした。どうして私が代表になったのかわかりません。でも、井科さんは私のサポートとして準決勝もそばにいてくれました。本当は日大三高を全力で応援したい。でも、サポート役の井科さんのことを考えると、私の感情で振り回すことはできない。任された仕事である以上、三高のプライドにかけて、マネジャーが失敗できない」
高橋さんは心の中で整理した。「99%は勝つから大丈夫。そして1%は、もしもの時は覚悟しないと」。2つの思いの中で試合は始まった。
後攻の東海大菅生が2回に先制、3回に追加点、5回にさらに2点。日大三高は6回表に2ランで2点差に追い上げる。
高橋さん 先制された時は、心の中では、やばいという思い。ソワソワする気持ちを落ち着かせるように、フーッと息を吐きました。2点を返すと、喜々とした感じが出ないように、言い忘れしないように、公平に公平にと思いながら、やっぱりフーッと息を吐きました。
劣勢は次第に敗戦濃厚へ。スタンドからは菅生ミックスが流れてくる。もうベンチは見られない。「見たら、気持ちがぐっと入ってしまう」。
高橋さん 7、8回はまだ心に余裕はありました。リードはされてるけど、でも大丈夫、本当に大丈夫と、祈っていました。9回になって、1%の覚悟がいよいよ大きくなって。涙は出ないけど、出さないけど…。自分と(アナウンスを)引き離して、気を引き締めていました。
仲間が負けゆく試合をアナウンスする。「何があっても監督さんの名前に傷をつけてはいけない。きちんと最後までやるんだ」。心の中で繰り返しながら声を張った。冷静に、正確に、公平に。目の前のアウト1つに集中し、試合進行を刻んだ。
最後の打者が三振に倒れた。2―4。小倉監督と甲子園を目指した高校野球が終わった。
高橋さん 私自身意外でした。すごく冷静で淡々としていました。東海大菅生さんの校歌も聴いて、井科さんにお礼も言えました。
驚くほどの静かな心で、アナウンス室を出る。目の前に、顔見知りの記者がいた。目が合い、ハッとした。大会前、こう言われた。「これで、次、取材する時は負けた時だよ」。もう取材する機会は来ないまま、勝ち続けろ、甲子園へ行け。エールだった。
その目を見て、すべてを理解した。「負けた」。心の中のストッパーが消え、押さえ付けていた想いがあふれてきた。
高橋さん そこは取材ができない場所でした。何も言葉はなかったのですが。部屋を出た瞬間、あの記者の方の目を見て、終わったんだと分かって…、涙が出てきました。
別室に行くと小倉監督と選手がいた。取材が終わった小倉監督が言った。「ごめんな、高橋」。
高橋さん 監督さんは声を震わせているようでした。私なんかに言う必要ないのに、そこまで言っていただいて。監督さんの顔を見て、何よりも好きな三高と離れる瞬間が来たと分かりました。
今も、その光景を思い起こす時、瞳は水面に光が反射するようにゆらめく。高校時代の大切な記憶だ。誰も不作法に触れることはできない、高橋さんのものだ。
翌日、選手1人ずつ食堂で小倉監督と話した。最後は高橋さんだった。
目の前の小倉監督はタオルを握り締め、固く閉じた口元が震える。高橋さんも涙が止まらない。「監督さんは、言葉にならなくて、私はただ泣きながら監督さんの言葉を待っていました」。
15の春、足がすくみ声がでなかった高橋さんを小倉監督は待った。2年が過ぎ、タオルで顔をおおい言葉を探す小倉監督を、高橋さんは静かに見ていた。高橋さんも黙る。この静寂の中、互いの思いは通じていた。無音でよかった。
「高橋、ごめんな」。必死な思いで野球部に飛び込んできた高橋さんの心情を思い、59歳小倉監督は男泣き。そして言った。「高橋が本当に感謝しないといけないのは三木だぞ。それを忘れちゃだめだぞ」。そこで、遠征に同行できたのも三木部長の進言があったと知った。
高橋さん その時はじめて、真央ちゃん、真央ちゃんと呼んでくださった三木さんが、影で私を支えてくださっていたのを知りました。こんな近くにもう1人、こんなにすてきな人がいたなんて。
最後のアナウンスから5年が経過した。春には明治学院大(心理学部)を卒業し、新しい生活を始める。あのアナウンスについて、高橋さんは爽やかに、スパッと言った。
高橋さん やれて良かったです。うれしかったです。いろんな方の気遣いとか、いろんなものがなければ絶対にできなかったです。感謝しています。三高野球部マネジャーとして、中身がギュッと詰まった重い重い2年間でした。
高橋さんの最後のアナウンスを巡るストーリーは、ひとつのものに没頭する高校生のひたむきさ、未知の世界に飛び込む勇気を、深く考えさせてくれる。
あの日、風が吹き、坂道を駆け降りスポンジを拾い集めて物語は始まった。敗戦のアナウンスで幕は閉じる。小倉監督の元、高橋さんは自分のストーリーを全力で駆けた。その正面からぶつかっていく姿に、何よりも尊い高校時代の輝きを見る。
最後のアナウンスは、多くを高橋さんにもたらした。心に負ったものもあるが、それは、これから形を変え、何度でも何度でも、彼女を励まし、勇気づける。いつでも、そっと背中を押してくれる。