プロ11年目で初めて首位打者に輝いた日本ハム松本剛外野手(29)が、日刊スポーツに手記を寄せた。7月に左膝骨折で一時は諦めかけたが、新庄剛志監督(50)の言葉が大きな原動力になった。家族の支え、ラッキーアイテムが、球団史上初の右打者でのタイトル獲得には欠かせなかった。

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首位打者を取れるという感情は、正直、全然なかったです。年齢的にも、立場的にも厳しいシーズンになるというのは重々承知していた。使ってもらった時には、思い切って今出せる力をっていう気持ちしかなかったです。

自分でも、こんなにできる選手じゃないと思っています。この1年間は四球を取ろうと思ってやっていなかったし、安打を1本でも多く打とうと思って打席に立っていた。守りに入って、四球を取れそうだなと思って打てないよりも、思い切り初球からガンガンいって、それで結果的にアウトになる分にはいいと思っていました。

ケガしたときは正直、めちゃめちゃつらかったですね。病院行くまでに「頼むから折れていないでくれ」ということだけを祈りながら診察を受けた。折れているって聞いたときは「あ、終わったな」と正直思いました。しかもオールスターが数日後だった。ファン投票という1番うれしい形で選んでもらったので、それが本当に申し訳ないなという気持ちになりましたし、僕自身もすごく楽しみにしていたので、そこが最初に浮かびました。

はじめは落ち込んでいました。最悪だと。でも自分でやってしまったことだったので。今年1年、思い切り行くっていうことを打席の中で表現してやっていたので、(自打球が当たって故障した)あの打席も、自分の中で思い切りインコースを狙いにいってケガをしてしたので、そこに対しての後悔はなかったです。とはいえ、結構つらいというかキツかったです。

規定(打席)は半分諦めていたけど、新庄監督から「6、7割まで走れるようになったら打席で使う」と(インスタグラムの)ダイレクトメール(DM)が届きました。そのDMが来た時は、よし!ってなりました、めちゃめちゃ。希望の光というか、一気に光が見えたのをすごく覚えています。奥さんにも「これ、いけるわ」と。すごい鮮明に覚えていますね。監督の言葉のおかげで、リハビリも前向きに出来たのかなと思います。いいモチベーションになったおかげで、早い復帰が出来たかなと思いますね。

ケガして2週間後くらいに、運気を変えようとロレックスの青い時計を買いました。3~4年くらい前から1本、いい時計が欲しかった。今、この悔しいタイミングで流れを変えようという思いを込めて。なのでいい方向にいったのかな。復帰も早く出来たし。僕は青色が好きで身に付けているものは結構、青が多い。手袋やフットガードの道具も。その時計も青がカッコよかったので買いました。将来、息子が出来て20歳になったときに譲りたいなという思いはあります。

今年の開幕当初には、長女の名前と生まれた日付を入れたユニホームを作ったんです。奥さんが写真を撮ろうと、何の気なしにテレビのあるリビングの1番見える位置に飾った。それからずっと調子がいいから、調子が崩れるまでは飾っておく、と。試合中は子どもがそのユニホームを着て、テレビの前で応援してくれる動画や写真が届きます。今年、子どもが観戦に来た2試合でホームランとヒーローになっています。やっぱり子どもの力って、あるのかなって思いますね。

応援していただいたみなさん、ありがとうございました。勝つということがファンのみなさんへの恩返しになると思うので、来季は優勝にこだわって頑張っていきたいと思います。(日本ハム内野手)

◆日本ハムの首位打者 前身、1リーグ時代も含め松本剛で5人目(のべ14度目)。張本勲が67年から4年連続を含む最多の計7度。47年に球団初のタイトルを獲得した大下弘が3度。小笠原道大が02、03年の2度。最新が07年の稲葉篤紀で、過去4人はすべて左打者。松本剛は右打者として球団初のタイトル獲得で、パ・リーグでは11年内川聖一(ソフトバンク)以来となった。

◆松本剛(まつもと・ごう)1993年(平5)8月11日、埼玉県川口市生まれ。帝京では09年夏、10年春、11年夏に甲子園出場。3年時には主将を務めた。11年ドラフト2位で日本ハム入団。13年10月4日ソフトバンク戦でプロ初出場。17年アジアプロ野球チャンピオンシップ日本代表。180センチ、81キロ。右投げ右打ち。今季推定年俸2050万円。家族は妻と1女。

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