大洋(現DeNA)の主砲として本塁打王1度、打点王2度獲得したカルロス・ポンセ氏(64)が19日、日本プロ野球外国人OB選手会(JRFPA)のコーディネートで東京・築地の日刊スポーツ新聞社に来社し、古巣にエールを送った。「CSに行ける能力はある。勝ってほしい。プレーオフは普段と違う。違う戦い方の準備をすれば勝てる。応援しているよ」と話した。

埼玉県内で「日本の子供たちに恩返しするため」野球教室も開催した。「アメリカ式の教え方をした。びっくりした人もいたね。僕は日本流を学べた」。NPB屈指の長距離砲だったが、指導法は意外にも長打のコツではない。「決してホームランを打つように教えたのではない。投手の力を利用して安定的に打てるよう教えた」と伝えた。

1985年にブルワーズでメジャーデビューした。21試合で打率1割6分1厘、1本塁打、5打点だった。日本球界屈指の渉外担当として名をはせた牛込惟浩さんの誘いで、1986年に27歳シーズンに来日した。「新人の年俸は6万8000ドル(当時1ドル168円換算で約1140万円)だった。牛込さんが提示した横浜大洋の方が条件がよかった。2年契約を提示してくれた」。日本についての知識はなかったが、当時は推定年俸3000万円と報じられていたので、3倍近い年俸が魅力だった。

スーパーカートリオ(高木豊、加藤博一、屋鋪要)の後を打つ4番打者として、打率3割2分2厘、27本塁打、105打点をマーク。さらには18盗塁と俊足も見せていた。「自分が残した成績ほど、そこまでできるとは思っていなかった。とにかく一生懸命やって結果を残せた」と振り返った。87年に打点王とリーグ最多安打(当時はタイトル表彰はなし)。88年は本塁打王と打点王を獲得した。

ポンセ氏の応援歌は、メキシコ民謡の「ラ・クカラーチャ」だった。そこに「バモス・ポンセ、バモス・ポンセ、打て場外へ」という歌詞が乗せられていた。「私はプエルトリコ出身なのですが、あの曲はメキシコの歌なんです(笑い)。当時のファンが、同じく米国の南の地域から来ているから、いいと思ったんじゃないかな。まあいいよね」。右翼席からの熱狂的な応援は「バモス(レッツゴーの意味)はスペイン語だから聞こえていた。でも僕はメキシコ人じゃないよ、とは思っていたけど(笑い)。ライトスタンドからの応援はよく聞こえていたよ」と感謝した。

当時、対戦した中で、メジャーでも通用すると思った選手もいたという。投手は槙原寛己。野手では原辰徳、吉村禎章(いずれも巨人)を挙げた。当時は対戦がオープン戦やオールスターに限られていたパ・リーグからも「若い一塁手で埼玉にいた」という清原和博(西武)の記憶をよみがえらせた。さらに、今後は村上宗隆(ヤクルト)も「数年後にはメジャーで活躍できるだろう」と太鼓判を押していた。【斎藤直樹】

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