プロ野球阪急の黄金期の二塁手で、阪急とオリックス、日本ハムで上田利治監督の名補佐役として知られた住友平(すみとも・たいら)さんが11日、大阪・豊中市内の病院で細菌性肺炎のため死去した。80歳だった。大阪市出身。喪主は妻の后子(きみこ)さん。

浪商(現大体大浪商)では60年夏から3季連続で甲子園に出場。61年夏には優勝した。1学年下に投手で怪童と呼ばれた尾崎行雄、同学年には阪急でもチームメートとなる大熊忠義がいた。明大を経て、65年の第1回ドラフト会議で阪急から3位指名を受け入団。

西本幸雄監督の黄金期、名脇役の二塁手として67年に球団初の優勝に貢献した。その67年に1人でトリプルプレーを完成した「無補殺三重殺」は現在でもプロ野球ただ1人の記録となっている。

実働10年で75年に引退したが、76年から上田監督の名補佐役として、長らく阪急でコーチに就いた。その後もオリックス、近鉄などで2軍監督などを歴任。95年からは上田監督の下、日本ハムのヘッドコーチ。96年に上田監督が辞任を申し出て休養した際には、代理監督として指揮を執った。

◆住友平(すみとも・たいら)1943年(昭18)8月17日大阪府生まれ。浪商から明大を経て、66年阪急入団。内野手として活躍し70年の西鉄戦では1試合7打点を記録。75年引退。通算511安打、55本塁打、236打点。89年にオリックス2軍監督としてウエスタン・リーグ優勝。現役時代は171センチ、72キロ。右投げ右打ち。

◆無補殺三重殺 1人でトリプルプレーを完成させること。日本プロ野球史上で1度だけしかない、67年7月30日、東京球場で行われた阪急-東京15回戦2回裏、東京の攻撃。先頭の6番前田は二塁手・住友の失策で出塁。7番篠原は四球で無死一、二塁。8番大塚は二塁へのライナーを放ったが、これを住友が捕球。二塁ベースを踏んで、飛び出していた二塁走者をアウトにした後、さらに走ってきた一塁走者にタッチし、1人でトリプルプレーを完成させた。