「最後のサムライ」「孤高の天才打者」と呼ばれたスラッガーが球界を去る。広島前田智徳外野手兼打撃コーチ補佐(42)が27日、プロ24年目の今季限りで現役を引退することを発表した。広島市内のマツダスタジアム内で会見を行った。右アキレスけん断裂など度重なるケガに見舞われながら、07年に2000安打を達成。今年4月に死球で左手を骨折し、手術後のリハビリでも完全復活はならず、決断した。10月3日中日戦(マツダスタジアム)が引退試合となる。

 前田智は時折、笑みすら浮かべていた。相手投手を萎縮させてきたオーラは、そこにはもうなかった。

 「言葉は悪いんですが、やっと終わったかと。重圧というか、そういうものから解放されて、ほっとしているところです」

 ユニホームを脱ぐ決意は固かった。20日に松田オーナーと会談。1時間15分の話し合いで、ようやく承諾を得た。2000安打を達成した07年以降からシーズン終盤の“引退交渉”は定番だった。「(オーナーから)励まされながら、もう1年、もう1年といって」現役を続けてきた経緯がある。今年最初の会談は8月初旬。「顔を見て(引き留めに)自信がなくなった」という松田オーナーに、その後も決意を訴えた。

 95年に右アキレスけん断裂、00年には左アキレスけんを手術するなど、致命傷からはいあがった。そんな不死鳥も、今回は羽ばたけなかった。4月23日ヤクルト戦(神宮)の死球で左尺骨を骨折。同25日に手術をしたが、リハビリは大幅に遅れた。医師から打撃練習再開の許可が出ても「自分のものじゃない感覚しか出てこなかった」と、大切なものが取り戻せなかった。シーズンも佳境に差し掛かり決断した。

 「つらいことばかりなので。うれしいことが、かなり、かき消されている」という波瀾(はらん)万丈のプロ野球人生だった。中でもプロ2年目に主力として出場した日本シリーズは鮮明な記憶だ。「あの雰囲気の中で、もう1度プレーをしたい」との思いが心の支えだった。皮肉にも、戦線離脱した最終年に後輩たちが16年ぶりのAクラスに入り、初のCS進出を決めた。「自分らしくケガで戦列を離れて、チームに貢献できなかったのは非常に残念」。最後の勇姿は10月3日、マツダスタジアムでの中日戦。背番号1の復活は1日限りになりそうだ。

 「ケガばかりの野球人生。背番号が泣いているというか、背番号に対しても見合っていないと思いながら、非常に申し訳ないと思っていた」と、こだわりの番号への思いを謙虚に語った。入団時は51番。94年に山崎隆造から引き継ぎ、1番を背負った20年間で、その重みは一層増した。新たな時代を築こうとする後輩に前田流のエールを送った。

 「先輩が付けてきた背番号なので。それに恥じることない成績を残すような選手に付けてもらいたいと思います。ま、現時点では、今のところは見当たらないので、この背番号はちょっと休ませてあげてほしい」

 孤高と呼ばれた希代の個性派は、次なる前田智の出現を心待ちにしながらグラウンドを去る。【鎌田真一郎】

 ◆前田智徳(まえだ・とものり)1971年(昭46)6月14日、熊本県生まれ。熊本工時代に2年春夏、3年夏の甲子園に出場。89年ドラフト4位で広島入団。山本浩二監督の91年は主に2番を打ちリーグ優勝に貢献。95年5月の右アキレスけん断裂の大けがを経て、07年にプロ野球36人目の通算2000安打を達成した。外野手兼打撃コーチ補佐となった今季は4月に死球で左手首を骨折し、戦列を離れた。タイトルとは無縁も規定打席到達の打率3割を11度記録。92~94、98年ベストナイン、91~94年ゴールデングラブ賞。02年にカムバック賞受賞。右投げ左打ち。176センチ、80キロ。今季推定年俸5600万円。家族は夫人と2男。

 ◆前田智と背番号1

 93年12月9日、前田智は背番号「1」の後継者に指名されていた。山崎隆造コーチの引退記念パーティーで、OB大下剛史氏から「私がつけて、山崎君が背負った1番を次は前田君に受け継いでもらいたい」と言われ、うれしそうな表情を見せた。「1番はやっぱりあこがれの番号。できるものならつけたい」と球団に要望。94年1月7日には背番号31から1への変更が球団から発表された。

 ◆広島の背番号1

 初代の白石勝巳(50~53年)は球団創立の50年に巨人から移籍。59~69年古葉毅(のちに竹識)は64、68年にセ盗塁王。75~78年の大下剛史は、75年に盗塁王を獲得し初優勝貢献。山崎隆造は83~93年に背負い通算228盗塁。