その還暦は超えていると思しき男性は、懇願するような口調で球場係員に問い掛けていた。「当日券ないの? 当日券。ないの?」。手には1000円札2枚が握り締められていた。スポーツ観戦のチケットもオンライン販売が幅を利かせ、ましてやコロナ禍の折、当日券販売も多くはない、このご時世。あえなく「当日券は売り切れました」の返答に、うなだれる男性の姿は実に気の毒だった。試合開始まで3時間以上もあるというのに。ただ、こんなシーンに少しだけ、スポーツが日常に戻ったことを感じさせられた。めったにお目にかかれない快投を見に行きたい、という衝動に駆られた人も多かっただろう。4月17日のことだった。
その1週間前。ZOZOマリンスタジアムで佐々木朗希の完全試合を生で見届けた。柄にもなく「ああ、もう思い残すことはない」と、しばらく座席から立てないほどの充足感、脱力感に体中が襲われた。背番号17が演じた、21世紀初の快挙を生で見届けてから1週間。再び足はスタジアムに運ばれていた。幸い、快挙前に前売り券はオンラインで購入していた。あの千円札を握り締めていた男性には、本当に申し訳ないが…。
2試合連続? よもや再び? まさかねえ…などという凡人の思いをよそに、令和の怪物は凡打の山を築いていく。いや、プロだよ、一回りすれば1本ぐらい打たれるだろうに…。裏腹にある期待の思いを胸の中に押し殺し、それでも4回、5回、6回とイニングを重ねても走者を1人も許さぬ快投。だが8回の攻撃が終わって、佐々木朗希がマウンドに上がることはなかった。
昭和のオジサン記者としては、投げる姿を見たかった。せめて9回まで。大切に育てたいのは分かる、分かるけど、ここを乗り越えたらもっと成長出来るんじゃないのか、100球を超えると肩、肘が壊れるのか…。さまざまな感情が込み上げてくる中、交代がアナウンスされ次に投げる守護神のアップテンポな登場曲が流れる。手拍子と小躍りで迎える場内の空気になじめず、喫煙所まで小走りした。その狭いスペースには、恐らく私と同じような感情を胸に押し殺していたような、何とも言えない空気が充満していた。
ただ、世間の受け止めからすれば、私のような「昭和のオジサン」的な思考は少数派のようだ。各種のネットアンケートなどを見れば「交代は正解」が7、8割を占める。今後10年、20年と将来のある青年のことを考えれば…ということのようだ。それも時代か…。そう自分を納得させると同時に、物議を醸す事象が起こるのは決して悪いことではないとも感じた。
今回の交代劇にファンの論調は「二分(にぶん)」どころか昭和のオジサン大劣勢の8対2ほどの差があるが、人ぞれぞれ感情や思いを抱き、発することは精神衛生上、悪ではない。ヘイトや誹謗(ひぼう)中傷は、もっての外であることは言うまでもない。たとえ9回以降を投げていたとしても、勝ち投手となって達成される完全試合が成立していた保証はない。予測を含んだ議論に「正解」などないはずだ。何かと思考停止になりがちなコロナ禍の中、あの男性が当日券を求めてスタジアムに足を運んだことも、交代劇で論議を呼んだことも、至って健全な姿だったと思う。
週明けには大相撲夏場所の番付発表があり、5月8日には初日を迎える。佐々木朗希と同じ東北出身の若隆景には、大関昇進への足固めが期待される(こじつけも度が過ぎるか…)。再び若武者に立ちはだかる横綱照ノ富士の復帰土俵にも注目したい。東大生力士の初土俵やいかに…。背番号17ほどの衝撃は与えられないにしても、プロ野球に負けず劣らずの白熱戦をファンは待っている。最後に。「大相撲裏話」のタイトルからは大きく逸脱してしまいました。「大相撲」でも「裏話」でも何でもない話ばかりに終始してしまい、申し訳ございません。この借りは必ずや…。【渡辺佳彦】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「大相撲裏話」)


