全日本プロレスの3冠ヘビー級王者、宮原健斗(33)を語る上で外すことができないのが、東京・後楽園ホールのリングだ。08年2月にデビューしたのも、16年2月に初めて3冠ヘビーを戴冠したのも、20年2月に川田利明の持つ歴代最多連続防衛記録に並ぶV10を達成した場所も、この場所だった。16日、後楽園ホールは開業60周年の節目を迎えた。「還暦祭」のメインイベントで新日本プロレスの棚橋弘至(45)と越境タッグを組む団体不動のエース宮原が、格闘技の聖地、後楽園ホールに思いをはせた。

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デビュー戦-。団体が期待を込めて送り出した、晴れの舞台。プロレスラーにとって「格闘技の聖地」と呼ばれる後楽園ホールでのデビューは、一種のステータスだ。だが、18歳の宮原に、そんなことを考える余裕はなかった。

「後楽園ホールのお客さんはプロレスに『目が肥えている』と、ずっと先輩から言われていました。だから、恥ずかしい試合はできないな、と。緊張感はもちろんありましたし、必死でしたね。本当のことを言えば、後楽園ホールでデビューとか、そんなものに浸っている余裕はありませんでした」。雰囲気を楽しむことなんてできなかった。入場ゲートからリングへ、ただ、全速力で一直線に駆け抜けたことを覚えている。

そこには常に、好勝負を求めるファンの目線があった。16年に3冠ヘビー級王座を初戴冠した際も、そうだった。「リングがどの席からでもすごく見やすいんです。だからプロレスがわかりやすいし、声が通りやすい。そういう意味では、反応が直に伝わるというのがあります」。自身がどんな試合をしたかというのは、ファンの反応ですぐにわかる。歴史ある団体最高峰のベルト。「本当にお前はチャンピオンにふさわしいのか?」。そう、試されているように感じた。恐怖すら覚えることもあった。

だが、納得のいく試合をすれば、たたえてくれるファンたちだった。「試合が終わって(リング周辺を)1周まわってハイタッチするんですけど、『健斗ありがとう』や『健斗最高だったよ』。ここはそういった声もダイレクトに届くんですよね」。試合直後は当たり前に感じていたそんな声が、気付けば今を楽しむ力へと変わっていた。

そんなプレッシャーとぬくもりが、宮原を全日本のエースに育てた。20年にV10を達成したのも後楽園ホール。「今となっては大好きな会場の1つ。財産。僕がレスラーとして生きている以上、ずっと続いていく場所」と笑った。

宮原は、後楽園ホールに、プロレスの足跡を見る。「控室1つでも『ここにあのレスラーが座っていたのかな』とか。僕が練習生の時に『あそこに三沢光晴さんがいたな』とか『ここに座っていたな』とか、今でもふとした瞬間に思いますよ」。ここに来ると、襟を正す思いになる。

自身が主役として、後楽園ホールに新たな歴史を刻んでいく。16日、後楽園ホールは開業60周年の節目を迎えた。宮原は「還暦祭」のメインイベントで新日本プロレスの棚橋と越境タッグを結成。新日本のタイチ、全日本のジェイク組と対戦する。「まぶしすぎるくらいのタッグになるのは間違いない。リングに上がってしまえば僕が全部を持っていきたい」。チケットは完売。プロレスを愛するすべてのファンへ、宮原の全力を届ける。入場から、会場の雰囲気を楽しみながら-。【勝部晃多】

◆後楽園ホールとプロレス 1962年1月、健康と娯楽と休息を集約する総合レクリエーションセンターのボウリング会館ビル(現後楽園ホールビル)が開業。ボクシング専用会場の後楽園ジムナジアムが、同ビルの5、6階に移設され、同年4月16日にこけら落としのボクシング興行が開催。67年に後楽園ホールに改称された。最初のプロレスの試合は、66年11月25日の日本プロレスとされているが、正式な記録は現存しない。