プロボクシング元日本、東洋フライ級王者の矢尾板貞雄(やおいた・さだお)さんが13日、小脳出血のため東京都目黒区の病院で死去していたことが19日、分かった。86歳だった。

現役時代は華麗なフットワークを武器に、フライ級では国内無敵だった。59年1月、ノンタイトル戦で7度防衛中の同級世界王者パスカル・ペレス(アルゼンチン)に判定勝ち。白井義男以来、日本2人目の世界王者誕生の期待が一気に高まった。しかし、同11月に大阪で行われた世界戦では、ペレスから2回にダウンを奪いながら、13回KO負けを喫した。

18年の取材で矢尾板さんは「2回に奪ったダウンが致命傷。それほど効いていないのが自分でも分かった。なのにセコンドが『いけっ!』と。怒られるから、いくしかない。あれで自分のペースが狂った」。当時は統括団体も1つで全9階級。壁はとてつもなく高かった。敗れたとはいえ、中継したテレビの視聴率は実に92・3%。注目度も今とは比較にならなかった。

62年10月に世界再挑戦が決まったが、試合4カ月前に突然、引退表明。持病の神経痛の悪化と、自尊心を傷つけるような所属ジム会長の言動に耐え切れなくなったのが原因だった。皮肉にも代役で挑戦したファイティング原田が世界王座を奪取したが、「あの決断に悔いはない。やることは全部やったもの」と後悔はしていなかった。

引退後は鋭い観察眼でボクシング評論家として活躍。長くフジテレビのボクシング中継の解説者を務め、試合のラウンドごとの「矢尾板さんの採点は」というアナウンサーの実況が有名になった。一方、ふだんから試合会場に足しげく通い、4回戦から観戦。77年以来40年以上にわたり、対戦カードと選手のパンチの種類、自身の採点をラウンドごとに細かく大学ノートに書き込んだ。そのノートは実に50冊を超えた。

15年ほど前に甲状腺機能に異常をきたし、甲状腺眼症の手術を受けたが、3年前に取材した際は「今は試合を見て、ノートに書くことが、生き甲斐になっているんですよ」と元気そうに話していただけに、突然の訃報だった。【首藤正徳】

◆矢尾板貞雄(やおいた・さだお)1935年(昭10)11月28日、東京・渋谷区生まれ。55年9月にプロデビュー。58年に日本と東洋のフライ級王座獲得。62年10月に同級世界王者ポーン・キングピッチ(タイ)への挑戦が決まっていたが、同6月の東洋王座防衛戦後に突然引退を表明した。戦績は66戦53勝(7KO)11敗2分け。引退後はサンケイスポーツでボクシング評論家、競馬記者として活躍。フジテレビでも長くボクシングの解説を務めた。