6日に87歳で亡くなった中村鋭一さん。関西では「えいちゃん」と親しまれ、一定以上の年代の関西人にとって「えいちゃん」と言えば中村鋭一さんであって、矢沢永吉さんではない。それぐらいだった。

 でも、たった6年だった-。ABCラジオ「おはようパーソナリティ中村鋭一です」は71~77年までの放送だった。

 中村さんの晩年、取材をした際に、ご本人も「なんや、20年ぐらいやってたみたいに思われてるけど、6年なんです。それぐらい濃かったんかな」と笑っておられた。

朝日放送社員時代の中村鋭一氏(写真提供=朝日放送)
朝日放送社員時代の中村鋭一氏(写真提供=朝日放送)

 ラジオと言えば「深夜の若者向け」だったものを「朝生ワイド」として、新たなジャンルを開拓。放送局とアナウンサーは不偏不党の時代に、阪神ファンとしての個性を前面に押し出した放送をし「パーソナリティー」を誕生させた。

 阪神タイガースの歌を「六甲おろし」と呼び続け、その呼称を定着。元阪神監督の吉田義男氏も「六甲おろしを、ひいては阪神タイガースが全国区になったのは、鋭ちゃんのおかげ」と感謝している。

 月亭八方さんも以前、言っていたが、阪神ファンが「六甲おろし」を「国歌」と呼ぶようになったのも、「おはパソ」での中村さんの影響は大きい、と-。

 中村さんは51年に朝日放送の第1期アナウンサーとして入社しているから、「おはパソ」が始まった71年まで、実に20年はスポーツ実況などで活躍していた。インタビュアーとしての腕には、盟友で「浪花のモーツァルト」こと、作曲家のキダ・タローさんが「名人芸」と表現する。

 キダさんは「上手に聞きはる。しゃべる割合は相手7割、自分3割。これ、理想的なんです。自分が4割とか、逆にしゃべらへんかったら、伝えたいことは引き出せませんからね。あの人はまあ、見事に自分3割を守った」。その技量に、感服したそうだ。

中村鋭一さんの思い出を語る浜村純氏(右)と吉田義男元阪神監督(撮影・渦原淳)
中村鋭一さんの思い出を語る浜村純氏(右)と吉田義男元阪神監督(撮影・渦原淳)

 中村さんより13年後輩で、「おはパソ」枠を引き継いだ朝日放送の道上洋三アナウンサーは、スポーツアナ時代から、中村さんの型破りな実況スタイルと、アナウンサーを見て、えいちゃん流に感銘を受けた。「生の実況は間違ってもそのままいけ。謝ったらしまい(終わり)や。やってもたら、潔く、そのまま進めろ」と言われたという。

 各所で「伝説」を残した中村さんだが、20年のアナウンサー時代より、たった6年の「おはパソ」が与えたインパクト、残した功績ははるかに大きい。後に衆参両院で16年議員も務めたが、やっぱり「おはパソのえいちゃん」は濃い。

 中村さん自身にも、その6年への思いは強く残っていたのではないか。そう考えていると、最も近くにいた道上アナが言った。

 「先輩は、(政治家として)先生と呼ばれるのが好きやった。でも、最後は(おはパソに)帰りたかったんやないか。今日も棺の中で、今すぐにしゃべりたそうな顔してはりました」

 道上氏は番組を引き継ぎ丸40年。数年前に「僕はもう十分(おはパソを)やらせてもらったから、もう1回、やったらどうですか」と、中村さんに言ったそうだ。もちろん、中村さんは「あほなこと言いな」と固辞。このやりとりに、中村さんの「たった6年」の番組への愛着と、先駆者としての誇り、先輩後輩の絆が凝縮されているように感じている。

【村上久美子】(ニッカンスポーツ・コム/コラム「ナニワのベテラン走る~ミナミヘキタヘ」)