あの人の教えがあったからこそ今がある。北海道にゆかりある著名人たちの、転機となった師との出会いや言葉に焦点をあてた「私の恩師」。“違いの分かる男”熊川哲也(43=Kバレエカンパニー主宰)に憧れ、宮尾俊太郎(31=同)はバレエの世界に飛び込んだ。フランス留学後に出会ったのが、熊川を育てた久富淑子先生(81)。熊川率いるバレエ団のプリンシパル・ソリストであり、映画、ドラマへと活躍の場を広げる宮尾に、傘寿を過ぎた今も指導にあたる恩師について聞いた。

 久富先生と出会ったのは、バレエを始めたばかりの15歳の頃、札幌で行われたセミナー会場でした。コーヒーのテレビCMに出ていた熊川さんに憧れてバレエを始めたので、その熊川さんを指導された先生と、どうしても話してみたかった。

 「熊川さんは最初から回れたの?」など、初対面なのに失礼な質問をする僕に、先生は真面目に返してくださいました。「初めから回れる人はいないのよ」「ちゃんと努力しながら、身に付けていったんだよ」と、エピソードもつけて。

 実際に指導を受けたのは、フランスから帰国後の1年弱。海外での(バレエ団の)就職がうまくいかず、進路を迷っていた時でした。それでも「やはり僕にはバレエしかない。もう一度バレエの門をたたこう」と思った時に頭に浮かんだのが、久富先生でした。

 先生との時間は濃厚でした。礼儀作法から、バレエに向かう姿勢、踊り、舞踊家としての精神性も学びました。先生に教わると、1回のレッスンで、何か1つうまくなっていくと実感しました。何より先生の上半身の雰囲気と形は美しい。厳しいけどチャーミングな、気持ちのいい怒られ方をしました。

 1年後にKバレエカンパニーに入団する時、お手紙を頂きました。「決しておごることなく、自分に敵ができたら、自分が作ったものと思え。常に気を引き締めて、心の隙間に風が吹かぬ人になりなさい」とありました。「絶対に自分のいるところ(Kバレエカンパニー)のことを悪く言うな。そして愚痴をこぼすな」とも言われました。

 今も旅立つ時の言葉は心に置いています。何かあった時に環境や状況のせいにせず、自分の責任と受け止めて成長できました。常に感謝の気持ちを持つようにし、何かのせいにして逃げることはない。特にバレエに関して何かあった時は、手紙を読み返して、気を引き締めています。

 北海道の公演は先生も見に来られますし、必ず神髄を突いてくれます。お正月には必ず電話をしますが、今年かけた時には年末の僕の踊りをテレビで見たらしく「腹筋が弱い」「もっとこうした方がいい」とアドバイスをくれました。

 熊川さんに紹介してくれたのも先生ですし、先生がいなければ今の僕はありません。いつも感謝していますし、常に今の僕があるのはあの時の先生との時間のおかげだと思っています。先生が幸せな時間を過ごすために僕にできることがあれば、何でもしたい気持ちです。【取材・構成=中島洋尚】

 久富先生 札幌で講習会があった時に、男の子がツカツカと寄ってきました。「先生、熊川哲也さんの先生でしょ」って。「そうよ」って言うと「熊川さんはピルエット5回、回れる?」って。「哲也は練習して、練習して、一生懸命頑張って5回、回れたよ」っていうと「フーン」って。それが出会いです。数年後にフランスから帰ってきて「どうしても熊川さんのところに行きたい」というので哲也に紹介し、「哲也のところで辛抱できたら、どんなことでも辛抱できる」と送り出しました。お父さんは音楽の先生で、バイオリンをやらせたかったようです。最後まで「バレエを許す」と言わなかったらしいですが、亡くなる前日も彼の出演するテレビ番組を見て、思い残すことなく旅立ったそうです。子どもたちには「勝っておごらず、負けてねたまず」と言葉をかけています。彼にも、その思いを持ち続けてほしいです。

 ◆宮尾俊太郎(みやお・しゅんたろう)1984年(昭59)2月27日、根室市生まれ。14歳でバレエを始める。01年から2年間、カンヌ(フランス)に留学。帰国後、久富淑子バレエ研究所(札幌)を経て、04年にKバレエカンパニー入団。12年からプリンシパル・ソリスト。10年にドラマ「ヤマトナデシコ七変化」、映画「花のあと」に出演。14年3月結成の「バレエジェンツ」座長。家族は母と兄。184センチ、73キロ。