俳優渡哲也さん(享年78)が8月10日に肺炎で亡くなり2カ月がたった。月命日を前にこのほど都内で、石原プロモーションの後輩で、入社前から約40年の親交がある舘ひろし(70)が渡さんについて語った。渡さん死去後、同プロの俳優が取材に応じるのは初めて。

8月14日に密葬、先月16日に四十九日法要が営まれた。

「四十九日が終わるまでは、と思って何も言えませんでした。いまだに亡くなったという感じがしないんです。ご遺体を見ていないからだと思います。もし、その場にいても見る勇気はなかったのかもしれません」

最後に話したのは電話だったという。定期的に電話をかけており、いつものような会話だったそうだ。

「亡くなる10日か1週間前です。元気な声で電話に出てくれました。いつも電話すると『ひろし、ありがとな、ありがとな』って言ってくれるんです。ただ電話で話すのがつらそうではあった。短い言葉でエールを送ったという感じです」

実際に会った最後は、昨年春にさかのぼる。石原裕次郎さんの自宅で、来年1月に芸能マネジメント業務を廃止し事実上解散する石原プロの話し合いが持たれた場だった。いつもなら秋以降にある、宝酒造のCM撮影の現場に顔を出すのだが、昨年は日程が合わなかった。

「月命日に奥さんとお会いして、お宅にうかがってお焼香をさせていただきました。亡くなった時の話を聞き、大変だった、と」

ようやく遺影に向き合った。

「いい写真でした。CMの時の笑顔の写真でした」

今月上旬には、墓参は石原プロ所属俳優らで行った。手を合わせて浮かぶ言葉は1つだ。

「感謝というか、『ありがとうございました』以外に浮かばない」

29歳だった舘が渡さんと出会って40年以上。舘が「西部警察」に参加する前、渡さん側から1度会っておきたいと言われた。

「みんなが座ってる中、パッと立ち上がって『渡哲也です』と握手をしてくれた。それが最初です」

俳優を続ける自信がなかったころでもあったという。

「すべてに自信がなかったし、やっていけるかどうか、でもつっぱっていた。そんな時、渡さんが『ひろし、お前には華がある』と言ってくれました。その言葉だけを頼りにやってきた気がします。俳優としてなんとか今あるのは、渡さんのおかげ。渡さんがいなかったら俳優としてやってなかったかもしれないし、続けてなかったかもしれない」

俳優人生の指針は渡さんという人間そのものだった。

「すべてのことに関して、渡さんだったらどうするだろうと考えます。撮影に臨む時、撮影中、渡さんはこういうことをしないだろうな、とは考えますね」

「西部警察」に半年出演し、演じていた役が殉職した。その後、別の役で再び同作シリーズに出演することになった。

「いったん出演が切れるんですけど、石原(裕次郎)さんの体調とかいろいろあって、電話ではお付き合いさせてもらってました。石原プロには行こうと思ってはいなかったけど、渡さんと一緒にいたいと思っていましたね。そのうち、専務(=故小林正彦氏)が『ひろし、うちにこいよ』と誘ってくれたんです。その時、渡さんは『俺がこの話は預かるから、ひろしは話をしなくていい』と。後で分かったんですが、渡さんは会社側と条件闘争をしてくれていたようですね」

舘の俳優キャリアは、アクションからコメディー、シリアスな作品まで出演作は幅広いが、自分の芝居に渡さんを感じることがある。

「知らないうちに渡さんに似てくるんですよね。コーヒーカップの置き方なんか見ると、この動き似てるな、って。教わったのは『芝居をするな』ということです。芝居ではなく、その人生を丸ごと演じろということだと思います」

渡さんはどんな人だったと問うと、楽しい思い出に目を細めた。

「大きくて繊細で、真面目でちょっと不良っぽい。映画スターってこういう人なんだろうな、という人。チャーミングな人でした。俺にとっては、父であり、兄であり、人生の師。もし、もし、来世というものがあれば、再び渡哲也という人の舎弟でありたいと思います。舎弟でいることが本当に気持ちよかった。いろんなことから守ってくれていたと思うし、今実感します。本当に渡哲也という人の舎弟でいられて良かった」

1番の舎弟である自分が密葬、法要に参列がかなわなかったことについては、深い思いがある。

「静かに送ってほしいということだった。俺が参列かなわなかったことで、参列したかった皆さんも多少なりとも納得していただけると思います。俺が行けば、あの人もこの人もという話になる。俺と渡さんのあうんの呼吸です。『お前、頼んだぞ』と言ってくれているような。俺にとって、葬式に出席する、しないは、乱暴な言い方をすればどうでもいいこと。参列することより、1日でも長く生きていてほしいんだから。参列かなわずかわいそう、という人もいるけどそんなことはない」

形見分けについても語った。

「30歳すぎた時、『ひろし、ゴルフをやれよ』と言われてゴルフのセットをもらったんです。それはどこかにいっちゃったけど、ゴルフは残ってます」と笑い「形の形見じゃなく、ゴルフもそうだけど、俳優としてのたたずまいとかそういうものを残してもらいました。残してもらったものはすごく多いです」

石原プロ「解散」後の去就も注目されている。「全然。考え中です」とし、渡さんなら何と言うと思うかと聞かれると「1人でやれよ、って(言うと思う)」と話した。

実現しなかった夢もあった。

「夢は、どんな形でもいいから2人で映画をやることでした。僕が悪役で、対決するようものでもいい。その夢はかなわないので、いい映画を撮って、墓前に報告できれば。映画は作りたいな」

渡さんは、舘の出演作はかならず見てくれたそうだ。

「『ひろし、あの作品良かった』『ひろし、いいなあ』と、いつも褒めてくれました。その言葉を聞けないんだ、という喪失感はあります。さみしいけど、前に進んでいくしかない」

亡くなってしばらくは「パニックだった時期があった」と明かした舘。渡さんならどうするかを常に胸に問いながら、これからも進む。【小林千穂】

舘と墓参した石原プロ所属俳優もコメントを発表した。神田は「私としては、故人の遺志を尊重してきたので、穏やかに眠っていただきたいです」。徳重聡(42)は「いまだ実感が湧いておりませんが、こうしてお参りにうかがい、少し気持ちに区切りがつきました。たくさんのことを教えていただきました。思いは尽きません」。池田努(41)は「渡さんの優しい笑顔、あたたかな声をずっと忘れません。未熟な私は何度も救われてきました。どれほど勇気と力をいただいたか分かりません。人として最も大切な優しさと思いやりを、身をもって教えていただき、本当にありがとうございました」。