元フジテレビでアイドル女子アナの元祖、フリーアナウンサーの寺田理恵子(59)が、15日に60歳の誕生日を迎える。2代目ひょうきんアナウンサーとして芸人たちのセクハラに耐え、「ときめき Lonely Night」でCDデビューも果たし、水着姿も画面で披露した。

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入社2年目の1985年(昭60)4月から「ひょうきん族」の「ひょうきんベストテン」司会の2代目ひょうきんアナウンサーを務めて、アイドル的人気が爆発。取材が殺到した。

「当時の広報部長が、競馬中継の名アナウンサーで知られた盛山毅さん。盛山さんが全部の取材を受けてくれて『プレイボーイ』とか『アサヒ芸能』とかの取材を受けていました。『ひょうきん懺悔(ざんげ)室』のコーナーで頭から水をかけられたり、レオタードを着せられたりもしました。今では考えられないんですが、番組の中で結構、水着姿になっています。高田純次さんとコンビを組ませていただいた土曜のお昼の情報番組『純ちゃんのごぶサタデー』とか、87年の大みそかから放送の年越し番組『ゆく年くる年』ではブラジルから水着姿でリポートしました」

コンプライアンスも、セクハラも、ネットもない。自由な時代だった。

「当時は必要があれば、他の人もやっていました。プールでの取材の時には、女子アナは水着姿。『オールスター水泳大会』とかでは、タレントさんが水着だったんで、意識することはありませんでした。海外は10カ国は行かせてもらいました。一番遠いのは『ゆく年くる年』のブラジルからの中継。飛行機の便があまりないので、2週間くらい前から現地入りしていました。治安が悪くて出歩けないので、スタッフの中に女1人で閉じこもってました」

アイドル人気が沸騰する一方で、フジテレビの社員アナウンサーとしての意識を忘れることはなかった。

「就職の時に、親からは商社も受けるようにアドバイスされました。でも、もしフジテレビに受からなかったら、日本テレビの『ズームイン!! 朝!』のオーディション受かっていたから、そっちへ行ってたと思いますね(笑い)。フジテレビでは、きつく注意してくれる人がいたからてんぐにならずにすみました。視聴者からお手紙をたくさんいただいたんですが『全部、開けて返事を書け』と言われました。返事を書いているところに通りかかった人から『ファンレター?』って聞かれて『ファンレターです』って答えたら叱られました。『バカ野郎、アナウンサーにファンレターはないんだ。ファンじゃない、視聴者の皆様だ。お前じゃなくて“ひょうきん族のファン”だろう』って言われて。そこで、私にファンはいないんだと気付かせてもらいました」

1989年(平元)7月に結婚と同時に退社。フジテレビには5年3カ月在社した。

「いい時代でした。写真誌の『FRIDAY』と『FOCUS』さえ気をつけてればいい。89年の7月に寿退社で辞めたんですけど、日刊スポーツには大きく扱っていただきました(笑い)。ちょうど、その時にアナウンス部長だった山田祐嗣さんも定年退職になりました。山田さんがフジテレビの関連会社の共同テレビでアナウンサーの部署を作ることになって、第1号として所属させてもらいました。89年から2000年までは共同テレビ所属のフリーアナウンサーです。『なんでフジテレビを辞めちゃったの』と言う人もいましたけど、ひょうきんアナの先輩の山村美智子さんも結婚して辞めていました。結婚したら退社するのが普通の時代だったんですね」

(続く)

◆寺田理恵子(てらだ・りえこ)1961年(昭36)7月15日、東京生まれ。聖心女子大を卒業し、84年フジテレビ入社。85年4月~86年9月「オレたちひょうきん族」の「ひょうきんベストテン」で2代目ひょうきんアナウンサー。86年8月には、クラウンレコードから「ときめき Lonely Night」でCDデビュー。89年7月にドラマ演出家との結婚を機に退社しフリーになるも98年に離婚。00年に一般男性と再婚、引退したが、12年に死別。14年にTBSラジオ「生島ヒロシのサタデー・一直線」で仕事復帰。認定心理士資格取得。「生島アカデミー」講師。血液型A。