元プロレスラーで参議院議員も務めたアントニオ猪木さん(本名・猪木寛至)が1日午前7時40分、心不全で死去したことが発表された。

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アントニオ猪木さんが死んだ。覚悟していたとはいえ、朝、電話を受けた時はショックだった。

2011年(平23)にプロレス担当を拝命した。子供の頃から憧れた職業だ。猪木さんは現役を引退していたものの、新たな団体IGFを率いて意気盛んだった。90年にアントニオ猪木議員番記者を務めて以来、21年ぶりだ。猪木さんは団体のPRマンとして、どこへでも顔を出した。そして、おなじみの闘魂ビンタを繰り出して、最後は「1、2、3、ダーッ」で締めた。

現役を退いた猪木さんは、プロレスについて語るときこそ熱くなったが、よく駄じゃれをとばして笑わせてくれた。12年に中国の上海で新団体「上海愛武(アイウー)」を旗揚げした。IGFのレスラーを連れて、上海で会見したのだが、そのスケールの大きさにびっくりした。「今日は無礼講で飲みに行くぞ」という猪木さんが連れて行ってくれた、大きな飲み屋ビルにはホステスが600人もいた。さすがのアントニオ猪木も「すげえな、中国は」と驚いていた。

記者は東京の麻布十番の小ぶりできれいな焼き肉店に30年通っている。デートにも使え、値段もさほど高くない。猪木さんも、この店の常連だった。ロサンゼルスに住んでいる時は、仕事で日本に来ると必ず顔を出していた。ある時、IGF主催の焼き肉パーティーが、この店で行われ、テーブルにホルモンがドッと並んだ。

記者が「関西に行くと、大阪の記者が焼き肉の本場の鶴橋に連れて行ってくれるけど、ホルモンが厚くてなかなかかみ切れない」と言うと、猪木さんは「じゃ、ホルモンは飲め」と言って、一気にホルモンをほおばった。フグの刺し身を箸でぐるりと巻いて一気に食べた時の事を聞くと「若い時はな」と豪快に笑ってグラスを傾けた。

一昨年の秋に猪木さんが入院した時は、この焼き肉店のマスターから病状を聞いた。青森の恐山に湯治に行ったのもマスター情報だった。

17年に結婚して、19年に62歳で亡くなった4番目の妻の田鶴子さんは、当時はマネジャーとして猪木さん身の回りの世話をしていた。元TBSの宣伝部所属のカメラマンで、元々芸能記者の私とは知人が丸かぶり。プロレス会場で、芸能話に花を咲かせることもあった。

ズッコさんと呼ばれていた田鶴子さんは、六本木の芋洗坂で「ZUKKO」というバーを経営していた。焼き肉の後は、ZUKKOで2次会だ。憧れのアントニオ猪木がマイクを握り、カラオケをうなる。そしてプロレスの話をたくさん聞かせてもらった。

12年の暮れにインタビューした時は、カメラマンのリクエストもあって闘魂ビンタをたたき込んでもらった。

プロレスを担当を離れる時にあいさつすると「頑張れよ」とギュッと握手してくれた。再会はかなわなかったが、夢のような記憶は鮮明に残っている。ありがとうございました。ご冥福をお祈りします。【小谷野俊哉】