60年代には故横山ノックさんらと「漫画トリオ」として活躍し、後にテレビ司会者として関西を中心に絶大な人気を誇った元タレント、上岡龍太郎(本名・小林龍太郎)さんが5月19日、大阪府内の病院で、肺がんと間質性肺炎のため亡くなった。81歳だった。引退後の窓口だった米朝事務所が発表した。

発表によると、「ご本人の強い意向により」ごく限られた身内のみですでに密葬で執り行ったといい、お別れの会なども固辞していたという。

息子の映画監督・小林聖太郎氏は「昨年秋ごろ、積極的治療の術がなく本人も延命を求めていない、と知らされた時に少しは覚悟しておりましたが、あれよあれよという急展開で母も私もまだ気持ちが追いついていない状態です」と心境を明かしつつ「とにかく矛盾の塊のような人でした。父と子なんてそんなものかもしれませんが、本心をうかがい知ることは死ぬまでついにかなわなかったような気もします」とコメント。「運と縁に恵まれて勝ち逃げできた幸せな人生だったと思います。縁を授けてくださった皆様方に深く感謝いたします」とした。

上岡さんは、芸歴40年だった00年に芸能界を引退。趣味のゴルフなどを楽しみつつ、11年には立川談志さん、15年には桂米朝さんが亡くなると、告別式に出席。16年には京都国際映画祭に訪れ、息子の聖太郎氏の作品を鑑賞していた。

余力を残した突然の引退から23年。上岡さんが亡くなった。関係者によると、上岡さんはもともと、不整脈のような症状があり、13年3月末、医師から「心筋梗塞の気配がある」と言われたという。即入院とはならなかったようだが、趣味だったゴルフも「体調が落ち着くまで、少なくとも半年は控えるように」と告げられ、療養に努めた時期もあった。その後は体調も回復。大阪市内のマンション周辺では散歩や買い物に出かける姿も目撃され、悠々自適なセカンド・ライフを送っていた。

引退後、11年12月には立川談志さんのお別れの会に出席。15年3月、弟子入りも考えたほど尊敬していた桂米朝さんが亡くなると、告別式に姿を見せ、「横山ノック、桂枝雀、立川談志、夢路いとし・喜味こいし、米朝師匠…僕のあこがれてた人が全部亡くなりました」とショックを隠せず。「(米朝の名跡は)永久欠番でしょうね」としのんだ。

16年9月には、最愛の弟子テントさんを交通事故で亡くし、通夜、葬儀では憔悴(しょうすい)しきった様子。「さすがの私も言葉がございません」と、多くを語らなかった。同年10月、息子の小林聖太郎氏が監督を務めた映画「かぞくのひけつ」が、京都国際映画祭で上映された際にも姿を見せ、鑑賞していた。

上岡さんは京都でバンドボーイなどをしていたころから、軽妙な語り口が評判を呼び、60年、故横山ノックさんに誘われ、横山パンチとして「漫画トリオ」に加入した。68年、ノックさんが参院選に出馬し、トリオは解散。その後、上岡龍太郎を名乗り、ソロでの活動を始めた。

立て板に水のような流ちょうな口調で、毒をはくスタイル。しゃべくりは理路整然。ソロ転向当初は仕事に恵まれなかったが、ノックさんの計らいもあり「ノックは無用!」「花の新婚!カンピューター作戦」(ともに関西テレビ)「ラブアタック!」(ABC)へ出演。関西芸人らしからぬ知的で、インテリ派な風貌と、二枚目路線のルックスが受け、司会者として絶大な人気を誇った。

87年には、笑福亭鶴瓶と2人が延々とやりとりするだけの異色番組「鶴瓶上岡パペポTV」(読売テレビ)がスタート。翌年には関東圏でも放送が始まり、90年代には全国ネットの番組も多く抱えた。

88年には「探偵!ナイトスクープ」が始まり、初代局長として進行を務めた。視聴者からのたわいない依頼に、芸人の探偵たちが生真面目に取り組む姿と、それをバッサリと斬る上岡さんの語り口が斬新で、令和の時代にも続く同番組の礎を作った。

ところが、年齢は58歳、司会者として脂ののりきっていた時期、芸歴40周年がちょうど、2000年にあたり「僕の芸は20世紀で終わる」として引退を宣言。上岡さんを敬愛していた元タレントの島田紳助さんら、後輩が引退撤回を求めたが、頑として譲らず、引退を敢行した。

頑固なことでも知られ、自称「オーナー」として熱心に阪神タイガースを応援していたが、球団が、新人の萩原誠に掛布雅之氏の背番号「31」を与えたことから、虎党をやめると宣言。公言どおり、その後、2度と阪神を応援している姿を見せなかった。

一方では、マラソンやゴルフを「(運動は)体力を使うから不健康になる」との独自の理論で毛嫌いしていたが、いったん、その魅力を知ると、徹底的に取り組む変節ぶりでも驚かせた。95年のマウイマラソン以降、積極的にレースに参加。「やるやつはアホ」と言っていたゴルフにも、はまり、芸能界引退直前には「プロゴルファーになる」とも口にしていた。

引退後は、その趣味のゴルフを楽しみながら、ゆったりとしたライフスタイルを貫き、ときおり、親しい桂米朝一門の落語会などにゲスト出演していた。

◆上岡龍太郎(かみおか・りゅうたろう)本名・小林龍太郎。1942年(昭17)3月20日、京都市生まれ。高校在学中、ロカビリーに感化され、卒業後は京都でバンドボーイなどを務める。達者なしゃべりを生かそうと、浜村淳、桂米朝らに師事しようとするが、60年、故横山ノックさんに誘われ、漫画トリオ入り。68年、ノックさんの参院選出馬でトリオは解散し、ソロ転向。「ノックは無用!」「花の新婚!カンピューター作戦」「ラブアタック!」や、「鶴瓶上岡パペポTV」「探偵!ナイトスクープ」のほか、在京キー局制作の「上岡龍太郎にはダマされないぞ!」など、多数の番組で司会を務める。20歳のころ、桂米朝に弟子入りしようとしたが、故桂枝雀さんを見て断念。後に立川談志の門下に入り、大ファンだった市川右太衛門から名前をもらい「立川歌右衛門」の名をもらう。引退した島田紳助さんに「ツッパリ漫才の紳助・竜介」を勧め、紳助さんに心酔されていた。