「ドラゴンボール」の作者、鳥山明さんと「ちびまる子ちゃん」の声を担当したTARAKOさんが相次いで亡くなった。68歳と63歳、ともに急逝だった。メディアへの登場は少なく、素顔に接する機会の少なかった2人だが、親しみやすいキャラを生み出し、演じていたこともあって驚きと喪失感は大きかった。
TARAKOさんが女優としてただ1度出演した映画「釣りバカ日誌3」(90年)の撮影現場を取材する機会があった。
西田敏行演じる主人公の浜ちゃんが勤める会社のOL役で、出番は5シーンと少なかったが、まる子ちゃんそのままの存在感は異彩を放っていた。
当時から、本名とともに年齢も非公表だったが、亡くなった年齢から逆算すれば出演時29歳。少女の面影を残す丸顔はアニメのキャラにそのまま重なった。自身をモデルにこの作品を描いた原作者のさくらももこさんが、自分に似ていると抜てきした逸話に納得がいった。
「ちびまる子ちゃん」のテレビ放送は、この年の1月に始まったばかりなので、気負いがあっただろうし、初映画の緊張もあったのかもしれないが、セリフもまる子の声そのままなのがおかしかった。
浜ちゃんが隠していたコンドームを見つけだし、「何だこりゃ」と伸ばしてみたり…コミカルなシーンが続く。本番中はスタッフ全員が必死に笑いをこらえ、栗山富夫監督の「OK!」の声をきっかけに毎回爆笑が沸き起こった。
そんな周囲とは対照的に本人はいたって真面目で、NGを出すたびに顔を真っ赤にして「申し訳ございません」と体を縮み込ませていたことを覚えている。
撮影が終わると、ホッとしたのか一転、地声で取材に応じてくれた。
「チャンスがあったらまたやりたいですね」と映画出演に前向きで、「まる子ちゃんブームが去っても、TARAKOの名前で活動を続けていきたいです」と今思えば、意外な意欲も口にしていた。
テレビ放送開始10カ月あまりの当時、ブームの盛り上がりはすさまじかった。視聴率は40%に迫り、正月映画としての上映も決まっていたし、主題歌の「おどるポンポコリン」は150万枚の大ヒットとなっていた。「サザエさん」とは色合いの違う極端な盛り上がりに、「一過性」を感じる人は少なくなかったと思う。本人にもそんな意識があったのだろう。
それが34年も続き、「自分の半分はまる子」となる半生を歩むことを当時はみじんも想像できなかったに違いない。
鳥山さんを取材する機会はなかったが、83年5月に出演した「徹子の部屋」が記憶に残っている。改めて見返してみると、成功しても決しておごらない謙虚な姿勢が垣間見える。
「Dr.スランプ」の単行本が9巻を数えた頃で、当時は公表されていた長者番付で著名人1位、総合でも35位にランクされた年だ。が、番組の中では構えたところがみじんもなかった。
初めてのテレビスタジオの大きさに驚き、「本当に(黒柳徹子の)部屋でやっているんだと思ってました」と真顔で話す。結婚間もなかった元漫画家の夫人みかみなちさんも同行していて、スタジオ見学中の様子がちらりと映ったのもご愛嬌(あいきょう)だった。
少年ジャンプに読み切りで発表した第1作が、アンケートで「思いっきりドベ」になったことや、同誌の名物編集者、鳥嶋和彦さんからの度重なるダメ出しを照れくさそうに明かしている。「ボツの繰り返しで少しずつうまくなってきた実感もありました」とも。
TARAKOさんもそうだが、長く愛されるキャラクターは、愛される人柄から生まれるのだと、改めて思う。【相原斎】



