「夢追い酒」の大ヒットで知られる渥美二郎(71)と、梶原あきらのデュエット曲「千住ブルース」が好評だ。渥美が千寿二郎のペンネームで作詞作曲し、03年に発表した同名曲のデュエット盤である。
梶原は宮城・石巻市から歌手を夢見て16歳で上京。同世代の渥美と、東京・千住を拠点に演歌師として同じ釜の飯を食った仲。その後、梶原は故郷に戻り、音楽活動を続けていた。約50年ぶりに再会し、演歌師の生きざまを歌った同曲の再発表につながった。
演歌師とはギターなどを抱え、盛り場で歌を披露する“流し”の一形態で、演歌を主に歌い、生計を立てた。昭和の盛り場には数多くの流しがいた。かつては大御所・北島三郎(87)も東京・渋谷でギターを抱え流しをしながら、歌手デビューを目指した。
渥美の父親も演歌師で、千住を拠点に、親方として演歌師や流しを仕切っていました。渥美は「事務所や寮もあって、常に30、40人いました。私も歌が好きで、いつか父親の後を継ごうと決めていたので、高校を辞めて16歳で演歌師になりました」と振り返る。
3曲歌って200円の時代である。当時はチェーン店は少なく、縄のれんの小規模な居酒屋が多かった。縄のれん越しにお客さんの様子を見て、入店のタイミングを見計らったという。「まだ乾杯をしていなかったり、話が盛り上がっていたりすると、『1曲いかが』と言ってもダメですから」と振り返る。
リクエストに応えられなかったり、歌唱がいまひとつ時などは「出直して来い!」と怒鳴られたという。「当時の千住のお客さんはガラが良かったですからね(笑い)。でもそんなお客さんに育てられたと思っています」。
座敷の客の前で歌う時、立って歌うと見下ろすことになるので、正座して小1時間歌うこともあった。「足がしびれて立てなくて。そんな姿に『気に入った!』と当時で5000円のチップをいただいたこともありました」。
まだ10代で、ホステスさんにも人気だった。「演歌師は30代が中心で、40代、50代もいました。僕が(演歌師に)なったのは16歳だから、かわいがられましたね」。当時の1日の稼ぎはチップをのぞいて5~6000円だったという。
なじみの客から「本格的に歌をやったら」と、友人という作曲家の遠藤実氏を紹介された。演歌師を8年経験して、歌手に転身した。最初はヒットに恵まれなかったが、1978年(昭53)に発売した「夢追い酒」が約280万枚の大ヒットを記録。不動の人気歌手となった。
カラオケが大流行し始めた時代で、「夢追い酒」もそのブームの恩恵を受けて大ヒットした。渥美は「『1曲いかがですか』とお店に入ると、もうお客さんが(カラオケで)歌っていた。縄のれんが自動ドアに変わり、お店入るタイミングも難しくなった。『夢追い酒』はカラオケが一要因でヒットしましたが、カラオケのおかげで(演歌師の)仲間たちは仕事がしづらくなり、辞めていく人が増えた。そんな時代の分岐点で、演歌師だった僕はヒットに恵まれた。複雑な気持ちでしたね」。
「千住ブルース」は、昭和の盛り場の、懐かしさや厳しさ、ほろ苦さ、そして演歌師の生きざまを感じる曲である。決して時代錯誤ではない。こういう時代もあったのだ、とじっくりと聴いてほしいものだ。【笹森文彦】



