往年の人気アイドル、永井秀和(74)が先日、三越劇場で上演された「マクベス」で30年ぶりに舞台を踏み、話を聞く機会があった。

デビューのいきさつには、当時の芸能界のおおらかな空気が感じられた。

時代劇の名脇役だった父秀明さんの忘れ物をテレビ局に受け取りに行ったのはまだ中学生の時だった。そこでスタッフの目に留まり、子役として重宝されるようになる。

淡島千景主演で西郷輝彦がその長男役を演じていたドラマ「ママとおふくろ」に出演していた時、「君、歌ってみないか」と声を掛けられ、ビクターのスタジオに連れていかれた。声を掛けたのは西郷をスカウトしたサンミュージック創業者、相沢秀禎氏だった。

「当時のビクターは、ねらっていた太田博之さんがクラウンからレコードを出すことになって、その穴埋めを考えていたんです。それで雰囲気の似ていた僕に声がかかったんだと思います」

後年「小銭すし」チェーンの経営やそれにまつわるトラブルでイメージが上書きされてしまったが、太田博之といえば美少年俳優として絶大な人気があった。個人的には子どもの頃に見た連続ドラマ「怪獣マリンコング」が記憶に残っている。

永井のデビューにはビクターの看板歌手だった橋幸夫さんの名物マネジャーとして知られた山川豊さんも関わった。山川さんはこの後、階段から落ちて不慮の死を遂げてしまうのだが、その名を惜しんで芸名として受け継いだのが演歌歌手の山川豊である。永井のデビューには当時の芸能界の大物たちがあちらこちらで絡んでいたのだ。

デビュー曲「恋人と呼んでみたい」は大ヒットし、その年のレコード大賞新人賞となった。当時のお決まりコースで、日活「青春太郎」で映画デビューも果たしている。

わずか4年の活動で学業専念のため引退したが、日大芸術学部在学中に出演したNHK大河ドラマ「国盗り物語」で再びブレークする。「国盗り-」で共演した池内淳子と母子を演じた「つくし誰の子」や「旗本退屈男」などレギュラー出演が続いた。が、当時のアイドル寿命は短く、40代に入ると仕事は激減した。

「人生の浮き沈みを実感しましたね。トントン拍子で行った分、ふんばりがきかなかった。僕の一番いけない部分かもしれません」

50歳で見切りを付け、旧知のオスカープロ創業者、古賀誠一氏に相談して同社の経営企画室で裏方に転じた。そこでは米倉涼子の出世作「黒革の手帳」にも関わった。近年はフリーのプロデューサーとして幅広く活動している。

「今回の『マクベス』は『水戸黄門』で共演させていただいた縁で(脚本、演出、主演の)横内正さんに呼んでいただきましたが、若い人に交じって舞台を作り上げていく喜びを味わいました。昔のコツを思い出しながら、演じることの楽しさをしみじみ感じています」

良くも悪(あ)しくも行き当たりばったりだった芸能界のシステムはすっかり洗練された感はあるが、人気の浮き沈みだけは今も昔も変わらないと改めて思った。【相原斎】