上方を象徴する漫才師中田ボタン(本名・藤長明)さんが、14日に大阪府内で亡くなったことが19日、分かった。78歳だった。関係者によると、葬儀・告別式は家族葬として終えた。「中田カウス・ボタン」として、上方漫才大賞を3度受賞。吉本興業の看板コンビでもあったが、19年3月に休養し、23年2月にマネジメント契約を解消。ただ、その後も「ステージ4の肺がん」と告白しつつ、盟友のYouTubeに出演し、元気な姿を見せていた。
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上方漫才の“体現者”が亡くなった。ボタンさんは、19年2月ごろから「疲れが抜けない」などの症状を訴え、検査入院。同年3月、体調不良のため一時休養すると発表し、相方中田カウス(77)とともに始めたライフワーク「漫才のDENDO」ツアーへも欠席。ボタンさんは「しっかり体調を整えて、また舞台に戻ってきます」とコメントしていたが、復帰はならなかった。23年2月には「区切りをつけたい」と吉本へマネジメント契約解消を申し出て了承された。
その後、体調は回復し、24年10月には、大阪・天満天神繁昌亭で、盟友桂小文枝の55周年公演にサプライズ出演。「ステージ4の肺がん」だったと告白。「血を吐きながら」舞台に出続けていたこと、医師から「余命3カ月」の診断を受けていたことも明かした。
ただ、抗がん剤治療が奏功し、4カ月ほどの入院で快方へ向かい、繁昌亭、小文枝のYouTubeなどに、髪の毛をそり上げて登場。往年の切れのあるトークを見せていた。
今年5月にも小文枝のYouTubeに、2人の対談動画が公開されていた。
ボタンさんは、カウスと大阪市内のバーで知り合い、親交を深め、67年にコンビ結成。上方しゃべくりの兄弟コンビ「中田ダイマル・ラケット」に師事した。
スーツが漫才師の定番だった若手時代、デニム姿でマイク前に立ち、女性人気の高い「アイドル漫才師」の先駆的存在でもあった。
技術も若くから長じ、速射砲のような掛け合いはお家芸。やんちゃだったボタンさんは、若い頃、借金を重ね、女性とも浮名を流したことから、ネタにボタンさんの私生活ネタを入れ込み、年を経ても衰えを知らない話術を確立した。
ボケのカウスへのボタンさんのツッコミの間、多様さは天才的。多くの若手がボタンさんのツッコミを舞台袖から見て学んだ“教科書”でもあった。【村上久美子】
◆中田(なかた)ボタン(本名・藤長明)1948年(昭23)4月12日生まれ、香川県出身。中田カウスと67年にコンビ結成。昭和の上方しゃべくり漫才を代表する兄弟コンビ「中田ダイマル・ラケット」に師事し、上方特有のスピード感あふれる話芸を磨いた。「中田カウス・ボタン」として上方漫才最高峰、上方漫才大賞は3度、95年には上方お笑い大賞も受賞した。



