メキシコ五輪男子マラソン銀メダリストの君原健二さん(78)が、東京五輪男子マラソン銅メダリストで無二の友である故円谷幸吉さんの遺影を身に着けて、聖火ランナーの大役を務める。25日、福島県内の聖火ランナーが正式発表された。君原さんは円谷さんの生まれ故郷である福島・須賀川市の公募に自ら応募し、走者に選ばれた。亡き友とともに聖火をつなぐ夢をかなえる。

  ◇    ◇    ◇

1964年東京から3大会連続で五輪に出場し、今も現役ランナーである「いだてん」の夢がかなった。「円谷さんが東京五輪を走った時の写真を胸につけて走りたい。規定でダメなら体のどこかに忍ばせて円谷さんと。これが願いです」。君原さんは何度も言葉を詰まらせた。

日本陸上長距離界の礎を築いた金栗四三氏に才能を見いだされた1人だった。デビューは62年「金栗杯朝日国際マラソン」(現福岡国際マラソン)。2時間18分1秒8の当時日本最高記録をマークして3位となり、東京五輪のメダリスト候補に浮上した。

東京五輪の代表合宿で同学年だが、年上の円谷さんと寝食をともにした。君原さんは実力を発揮できず、8位に終わった。円谷さんは国立競技場のトラックでヒートリー(英国)に抜かれたが銅メダルを獲得。苦悶(くもん)の表情で駆け抜けた。国立競技場で唯一のメダルと日の丸を掲げた円谷さんの走りに国民は胸を打たれた。

一方で君原さんは「国民のみなさんの期待を裏切った」と東京・代々木の選手村でうなだれた。地元に戻るや所属する八幡製鉄(現日本製鉄)陸上部に退部届を提出した。それでも再起戦の66年ボストンマラソンで優勝し、表舞台に返り咲いた君原さんを68年1月9日、訃報が襲った。

年明けの職場で円谷さんが自ら命を絶ったことを知った。「ただ、ただ悔しかった…」。東京五輪前年、63年のニュージーランド遠征で選手団は帰路に香港に立ち寄った。「その時に円谷さんがダイヤモンドの指輪を買い、贈る人がいる、と聞いて驚いた」。

しかし、東京五輪で国民的スターとなった円谷さんはメキシコ五輪での金メダルという極度の重圧に苦しんだ。歩くこともままならない重度の腰痛、信頼するコーチらの解任、愛する人との結婚よりメダルが優先され、円谷さんは追い詰められた。一方で君原さんはメキシコで銀メダルを勝ち取った。「円谷さんと自分の人生の岐路はどこだったのか…。円谷さんは寡黙なイメージはあるが、実に朗らかな人でした」。

89年から円谷さんが生まれた福島・須賀川市で開催される「円谷幸吉メモリアルマラソン」を走り続ける。福島の聖火ランナーに自ら応募した後、福岡県からも聖火ランナーを打診されたが「円谷さんの生まれ故郷を走りたい」と断った。

中学2年に本格的に陸上競技を始めてから日誌に走行距離を書き込んでいる。聖火ランナー決定の25日で18万キロを超えた。「地球4周半ほどですが金栗先生は25万キロだったと聞いた。とても追い付きません」。3月28日、聖火ランナーとして走る200メートルが、日誌に加わる。【大上悟】

◆君原健二(きみはら・けんじ)1941年(昭16)3月20日生まれ、福岡・小倉市(現北九州市)出身。県立戸畑中央高(現県立ひびき高校)から八幡製鉄入り。62年12月、初マラソンの金栗杯朝日国際マラソン(現福岡国際マラソン)で3位。64年東京五輪の男子マラソン代表で8位。68年メキシコ五輪で銀メダル、72年ミュンヘン五輪5位で日本初の2大会連続入賞。自己ベストは69年アテネ国際の2時間13分25秒。66年ボストンマラソンで優勝。2016年の同マラソンに50年前の覇者として招待され、4時間53分14秒で完走した。マラソン出場74回を全て完走、棄権は1度もない。家族は和子夫人(76)