本音と建前の境目のない人だった。

何度か取材の機会があったのは95年に議員辞職してから都知事選に立候補するまでの4年間だが、日刊スポーツ50周年にコメントをもらうため、都内の事務所を訪ねた時のことはよく覚えている。

夕方5時過ぎで、事務所のスタッフは出払って本人1人。シンプルな応接セットに招かれ、隣室の冷蔵庫から缶ビール2本とつまみを抱えてきて向かいに座った。当時63歳。大臣を歴任した政治家の「フットワーク」の良さを意外に思った。つまみは駅やコンビニでも売っているホタテの貝柱を干したもので、かなり硬い。口の中にジワッと染み出したうま味に思わずほほ笑むと、「これうまいだろ。ビールの時はこればっかりだよ」とうれしそうに笑った。

ざっくばらんな取材はいつも楽しかったが、メモや録音から記事に起こす作業には少々気を使った。言葉狩りを嫌い、話のところどころにここでは書けないような言葉や表現が交じるからだ。意図的にではなく、ごく自然に口をつく。ビールが入ったからではなく、きちんとセッティングされたインタビューでも、それは変わらなかった。

1963年(昭38)秋場所千秋楽では大鵬-柏戸の一番を日刊スポーツ紙上で「八百長」と言明。物議を醸した。タブーを気に掛けないこの人らしい発言だが、貝柱をさかなにしたあの日、「そういえば八百長の件もあったね。日刊にも迷惑かけたかなあ。申し訳なかったなあ」と、珍しく神妙な表情を見せた。そんな謝り方もざっくばらんだった。【相原斎】