東日本大震災で壊滅的な被害を受けながら、わずか半年で会社を復旧。約270人の社員の雇用を守りつつ奮闘を続けてきたのが宮城県気仙沼市の水産会社「かわむら」の川村賢寿会長(72)だ。「諦めちゃダメ。挑戦しないと」をモットーに歩んできた11年の思いを聞いた。

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気仙沼市と岩手県陸前高田市にまたがり、ワカメやイクラなどの製造販売を行っているのが「かわむら」だ。3・11の津波でグループ企業と合わせて27施設のうち25施設が被災。稼業を継ぎ、1970年から40年以上かけて築き上げたほとんどが一瞬で失われてしまった。

だが、270人の社員と一丸になって会社を再建。18年にはインドネシアに合弁会社を設け、同国やカンボジア、ミャンマーからの実習生も受け入れるなど、事業を海外展開するほど成長した。そのかいもあって、現在はグループ企業の売上額を震災前に戻すことができた。

震災当時を振り返ってもらうと「あの時は生きるか死ぬかの瀬戸際だった」。そして「約270人いる社員は1人も死者が出なかった。日ごろから津波を想定した訓練をしていたおかげでした」と付け加えた。

安否が不明だった弟の政寿さん(後に遺体で発見)の捜索などを行いながら、3月末には早くも会社の復興を決めていた。「やってダメならば仕方ないけれど死ぬ時に後悔はしたくない。朝起きて『悔いのない人生だった』と言い切れる生き方をしたかった。人は死に方は選べないけれど生き方は選べるから」。津波から車で逃げる途中、前を走っていた車は流されたが自身は生き残った。そのことも「悔いなく生きる」ことを強く意識する後押しになった。

最初はがれきの片付けから始まった。「その中にたくさんのご遺体があった。『悲しい』というような感情は湧かなかったね。感情というのは余裕のある時にしか出ないことを知ったよ」。そして「時間がたってからあの時のことを思い出すと胸が熱くなる。今でも…」と付け加えた。

会社の復興には主力商品であるサケが戻る同年秋までに工場を再開することがタイムリミット。半年しかなかったが「来年なんて言っていると販路が途切れてしまう」。金融機関などの融資を受け、復興にまい進した。「膨大な借金をしました。工場ができあがるまでに5年かかった」。

どん底からの復活をとげ、現在は地域経済の牽引役も担っている。気仙沼では震災前のライバル同士だった同業者をまとめて「協同組合」を組織。販路拡大などに大きく貢献している。陸前高田では「水産食品加工団地」を設立。行政にインターチェンジを作りを要望し、陸路輸送の利便性を飛躍的に高めた。

震災からの11年について改めて聞くと「あっという間だった」としみじみ。続けて「サケやサンマ、イカは震災前と比べると全く取れなくなった。これからどうやって生き残っていくのかが大変。でもこれまでも、いろいろと考えて必死に生きてきた。これからもそう。人は死ぬまで考える。それが人生なんだべなぁ~」。

川村さんの目は常に前を向いている。【松本久】