岐阜県と神田明神が21日、東京都千代田区の同神社で共同会見を都内で行い、未来につながる連携について発表した。地方自治体としては初の試みになる。
一見、かけ離れている感じの両者だが、実は歴史をたどると意外な接点が多い。神田明神三之宮の御祭神である平将門は天慶の乱で敗れた後に京都で首をさらされた。その首が御霊(みたま)となって関東に戻る途中、関東での新たな乱を案じた岐阜・南宮大社に座す隼人神(はやひとしん)が矢を放って射落としたという。将門の首が落ちたのは現在の岐阜県大垣市内で、そこに霊を慰めるため、「御首(みくび)神社」が創建されたという。
さらに1600年、天下分け目の関ケ原の戦いに先立ち、徳川家康はかつて江戸城内にあった神田明神で戦勝祈願を行った。石田三成を倒した合戦当日の9月15日は、神田祭の開催日でもある。そこから260年以上の太平の世をもたらした。また、江戸幕府が主要幹線の1つと位置付けた中山道は、東京・日本橋から神田明神の前を通り、岐阜県美濃地方の東は馬籠(中津川市)から西へと向かい、関ケ原を経由して京都へと行く。全69次ある宿場のうち、岐阜県内では17次整備された。
かつてのつながりを知った岐阜県の観光資源活用課が今年春、神田明神に声を掛けたところ、「各自治体の情報発信の場にすると同時に、歴史の掘り起こしをしたい」と考えていた神田明神側の思いが一致して、今回の連携となった。
神田明神によると、家康の戦勝祈願については江戸中期、寛政年間の古文書「神田明神御由緒書」に1~2行、記録として残っている程度だという。
会見に出席した「岐阜関ケ原古戦場記念館」の小和田哲男館長(79)は、「これまであらゆる口伝や古文書を調べたが、読んだことはなかった。あれだけの大戦で神々を味方に付けたいはずの家康は、家臣を使いに出してでも祈願をしていたはず。そのなかの1つに神田明神があったということは、本人が祈願に行った可能性が高いと理解している」と話した。
そんな時空を超えた結びつきが、これから先もつながる。両者では今後、それぞれが所有する所蔵品の展示を実施する。このほか、小和田館長の講演会など、イベントの共同開催、将来的に岐阜県の東濃地域に開業予定のリニア中央新幹線を記念した当該エリアへの誘客と、特産品の神田明神境内での実演販売、双方の公式サイトなどによる情報発信などを行っていく。
人と歴史の持つ縁は強い。岐阜県関ケ原町に2020年(令2)10月、開業した「岐阜関ケ原古戦場記念館」は昨年は過去最多の14万人の来場者があった。今年はそれを上回る勢いだという。神田明神の連携を契機に、「歴女」だけではなく、修学旅行での誘致なども同県では見込んでいる。