ウマ娘と一緒に有馬記念(G1、芝2500メートル、25日=中山)を盛り上がろう。昨年2月のゲーム配信開始から大きな話題を呼び、社会現象を巻き起こした「ウマ娘 プリティーダービー」。今回は「ウマ娘×ニッカン G1ヒストリア特別編」として、マヤノトップガンが制した95年有馬記念を振り返る。同馬を管理した坂口正大元調教師(81=日刊スポーツ評論家)とともにマヤノトップガンの魅力、絶大なウマ娘人気の理由を探った。【取材・構成=下村琴葉、木村有三、協力・Cygames】

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現役時代は厳しい視線を愛馬に注いでいた坂口元師が、目尻を下げて切り出した。

「中3の孫娘の友達がね、ウマ娘をやっていてね。マヤノトップガンとか、キングヘイローとか『おじいちゃんが育てていた』という話になったみたいで」

81歳を迎えた師の表情は、優しいおじいちゃんそのもの。少し照れながらもうれしそうで、どこか誇らしげでもあった。

世代を超えて、名馬について語り合う。坂口家のような光景が今、多くの家庭でも見られるようになった。これまで競馬に興味もなかった人々が「ウマ娘」をきっかけに、その魅力の一端に触れ、家族とのコミュニケーションも深めていく。「トレーニングをして育てていくというストーリーがあるウマ娘は、競馬のファンを広げるのに、ものすごく有効だと思う」。坂口元師も実感を込めるように、うなずいた。

そんな師が管理したマヤノトップガンは「ウマ娘」でも人気キャラクターだ。ゲームでは、たいていのことは何でも得意で、驚異的な直感力と超人的なセンスを持ち、その場の正解がすぐ分かる天才肌とされている。その一方で、甘えん坊でやんちゃ、そして飽き性の一面も持つ。

では、実際はどんな性格だったのか。四半世紀以上前の記憶をたどり、坂口元師が明かす。

「調教も素直だったし、扱いやすいタイプでしたよ。カイバもきっちり食べるしね。かむという癖はあったけどね。担当者(厩務員)をガッとかんだりするので、口に(予防)器具をつけたこともあったね。私も、脚元を見ようとした時に、何回もかまれましたよ」

マヤノトップガンが名馬へと、ステップアップしたレースと言えば95年有馬記念だろう。直前に菊花賞を制した師には、ある思いがあった。「あの菊花賞は牝馬のダンスパートナーが1番人気だった。有馬で惨敗したら、菊花賞に勝ったことが『まぐれ』と思われる。それだけは避けたかった」。秋は神戸新聞杯、京都新聞杯、菊花賞と既に3戦しており、状態には人一倍気を使った。出走を最終決断したのは当週の追い切り後だった。

迎えた当日。中山競馬場は、かぶっていた帽子が飛ばされるほどの強風だった。坂口元師の頭に「風の強い日は逃げるな」という先人の教えが浮かぶ。レース前に、鞍上の田原成貴騎手の思惑を確かめるため、会話をかわすと「全然、風強くないですよ!」と返ってきた。風が強いことは明らかなのに、そう答えた主戦の様子を見て、師は「これは絶対ハナに行く」と直感する。

「パドックでも『(内から)タイキブリザードが行ったら、行くなよ』と言ったんです。そしたら、僕の意に反してやっぱり行きましたわ。それで逃げ切ったんです。だから、縦横無尽というのではない。成貴は自分の意のままに動いたかもしれんけど、関係者にとっては『行ってしまった~』ですよ。結果オーライですよね、勝てたから」。

4つのG1を4角先頭(菊花賞)、逃げ(有馬記念)、先行(宝塚記念)、差し(天皇賞・春)と、すべて異なる戦法で勝ったことから、ゲームでは「変幻自在」キャラとしても成り立っているマヤノトップガン。その自由奔放さを象徴するレースでもあった有馬記念が、実は関係者にとって想定外だったとは…。

意外性に満ちた天才肌、マヤノトップガン。四半世紀の時を経ても、その魅力は色あせてはいない。

◆マヤノトップガン 1992年3月24日、北海道新冠町・川上悦夫牧場生まれ。父ブライアンズタイム、母アルプミープリーズ(母の父ブラッシンググルーム)。栗毛、牡。馬主は田所祐。栗東・坂口正大厩舎から95年1月デビュー。同年菊花賞、有馬記念、96年宝塚記念、97年天皇賞・春とG1・4勝。他に重賞勝ちは97年阪神大賞典。通算21戦8勝。95年年度代表馬。総収得賞金は8億1039万円。