表面張力が働いた升で唇を湿らせながら、巨人の巡回コーチを務める小谷正勝と上原浩治について話していた。

長梅雨の夜、辛口の冷酒がよく合った。

「引退しましたね」

「引退したなぁ」

「何か、話は」

「少しだけ。『ちょっといいですか』って言われたけど、オレはいいよって。『引退する』とは話してくれたけど。雰囲気で分かるわな。話して、何かが変わるものでもない」

「いろいろ話したかったのかも」

「巨人のエースやで。自分で引退を決める選手。それだけだろう」

指導者として40年、あらゆる引き際を見てきた。体を揺らして姿勢を変え、少しだけ声を張らせた。

「よく頑張った。巨人のエースだから。メジャーで世界一になって、戻ってきてからは思うようにいかなくて、大変だったと思う。悔しかったんだろう、会見で泣いてたな。でも最後まで変わらないで、黙々と練習してたな」

11年前の夏、小谷は2軍落ちした上原を2カ月ほど預かり、技術指導を行った。ジャイアンツ球場のブルペンでマンツーマンの日々も、何かを教えている様子はなかった。「見てるだけですか」と聞いた。

「勝てない時期も、ずっと巨人のエースを張ってきた男だ。分かるやろ」

「…何でしょう」

「苦しんでいる姿を、若い選手に見せてはいけない。オレに教わっている姿なんてもってのほかだ。そんなに軽い男じゃない。プライドをつぶすようなことは、絶対にしてはいけない」

2人きりのクラブハウスで指導を行い、翌日のグラウンドで復習していると後で知った。

ある酷暑の昼下がり、小谷が行方不明になった。駐車場に車がないという。一部のスタッフに「体調が優れないので帰る」と伝えていた。「大丈夫ですか」「最近、暑いから。大丈夫」。

自宅に上原のフォームを撮影した動画と連続写真を持ち帰っていた。夜通し研究していたことも後で知った。

   ◇   ◇

「大変でしたね当時は」

「…もう覚えてないな。昔のことだ」

しばらく黙って升に口をつけ、残った酒を流し込んだ。

小谷は間違いなくあの時、自分の誇りにかけて、再生にすべてをかけていた。再び指導を仰いで幕を引いた上原。感謝を伝えたかったんだと思う。

やぼを嫌う職人の小谷からすれば、仕事に忠実を貫いただけであり、そんな言葉は聞きたくなかったんだと思う。【宮下敬至】(敬称略)