湘南は試合前のシートノックが見せ場だった。ノッカーは佐々木の父で監督の久男だった。

 佐々木 うちのおやじはキャッチャーフライを打つのがうまかった。打ち損じがないんですよ。ターンと上げるとね、他のチームの監督が打つフライより高く上がる。それを向こうのチームが見てるでしょう。こっちは普段から慣れているからパッと軽く捕る。相手が「こりゃすげえ」と驚くんですよ。

 試合前から優位に立てた。

 初戦は鶴見に13-4で大勝した。準々決勝は横須賀を5-0、準決勝は逗子開成を5-1で下した。佐々木は1年生ながらスタメンで出場していた。

 佐々木 7番か8番のレフト。大した選手じゃありませんでした。

 決勝は神奈川商工との対戦になった。横浜スタジアムができる以前で、舞台はゲーリック球場だった。この前年から神奈川単独で出場権を得ており、まさに甲子園をかける1戦となった。

 神奈川商工は、佐々木と同じ1年生の大沢昭がエースを務めていた。のちに啓二と改名し、プロ野球の日本ハムで監督を務める。「大沢親分」と呼ばれる男だった。

 湘南は先頭打者から連打を許し、送りバントで1死二、三塁のピンチを迎えた。打席に大沢を迎えた。

 1点は覚悟する場面で、エース田中孝一が三塁走者をけん制で仕留めた。三塁手は脇村春夫。彼はのちに2002年から08年まで日本高野連の会長を務める。

 脇村 田中さんと私のあうんの呼吸だった。

 2死二塁から今度は二塁走者をけん制で刺した。絶体絶命の場面を、相手の4番にバットを振らせず無失点で切り抜けた。8回にも、1死三塁のピンチを田中から脇村への三塁けん制で切り抜けている。

 7番左翼で先発した佐々木が輝いたのは、2回に先制を許して迎えた4回だ。1死満塁から投手の前に同点スクイズを決めた。1-1で迎えた9回には1死一塁から進塁打となる二塁ゴロで勝ち越しに貢献した。

 3-1で迎えた9回裏2死一、三塁、遊ゴロで一塁にボールが送られた。甲子園出場を決めた瞬間は、今も佐々木の胸に残る。

 佐々木 レフトの守備位置から脱兎(だっと)のごとくホームベースにかえってきた。100メートル競走みたいにね。あの瞬間が、私の人生で一番うれしかった出来事。今年83歳だけど、83年間でね。2番目が結婚式かな。好きな人とやっと一緒になれたといううれしさでね。でも2番なんだね。甲子園の優勝が1番なんじゃないかと言われるけど、何だか訳が分からなくて記憶にないんです。

 湘南は1921年(大10)に旧制中学として創立した名門だが、野球は創部から4年目の新興勢力だった。神奈川商工はこの時点で1928年(昭3)の夏、31年の春夏と甲子園に3度出場していた。下馬評は神奈川商工有利だった。

 佐々木 野球をやっている高校生は、甲子園が目標なんですよ。優勝は目標じゃない。甲子園に行きたくてみんな努力する。

 後年、佐々木がプロ野球ニュースのキャスターを務めている時代、大沢親分と何度も顔を合わせた。

 佐々木 大沢は死ぬまで「あの年は弱い方が甲子園にいきやがった」と言っていた。私はね、「ビッグゲームになればなるほど強い方が勝つんだ」と言ってやった。そうするともう文句を言えなくなる。

 楽しそうに生前の掛け合いを振り返った。

 初めて全国選手権大会への出場を決めた湘南は、いったん東京に出てから夜行列車で甲子園に向かった。(つづく=敬称略)

【斎藤直樹】

(2017年5月27日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)