都立高校の球児にとって甲子園が「憧れ」だったのは、もう昔の話だ。80年夏に国立が初出場し、城東が99年、01年の2度、雪谷も03年に聖地の土を踏んだ。圧倒的優位だった私学と互角に戦うため、監督たちは「高校野球研究会」を立ち上げ、知恵を絞り、ライバルながら力を合わせてきた。14年に「21世紀枠」でセンバツ初出場した小山台の福嶋正信監督(62)と、紅葉川・田河清司監督(60)、元城東の足立新田・有馬信夫監督(56)。5月上旬、同研究会メンバーのベテラン3監督に都立校の過去、現在、未来を聞いた。【取材・構成=和田美保】

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 小山台・福嶋正信監督(以下福嶋) 有馬先生が99年に甲子園(※1)に行って、「よし、都立でも!」って思った。

 紅葉川・田河清司監督(以下田河) 有馬が甲子園に行ったのは革命だった。城東高校で甲子園に行く前、夏は練習試合を毎日やっていたよね。「いったい、何百試合やるんだ」って思って見てたっけ(笑い)。

 足立新田・有馬信夫監督(以下有馬) あれは「キャプテン(※2)」を読んだ影響。墨谷二中が勝ち上がっていく夏、毎日試合してたんだよ。ボロボロになりながらも、だんだん強くなってさ。おれはそれを読んで「これだ!」って思ったね。でも、甲子園に行くまでは練習試合が全然組めなくて、相手なんて選べる状況じゃなかったよ。

 田河 安田学園と練習試合をやっていたのを覚えてる。江戸川球場へ見に行ったよ。阿部慎之助(巨人)が左中間の奥に弾丸で放り込んだのはすごかった。

 有馬 甲子園に行く何年か前ね。とんでもなかったよ。大学の先輩で安田学園の中根(康高)さんが「これから指導者をやるなら、こいつは見たほうがいい」って声をかけてくれた。うちも3年生で球速135キロくらいのサイドハンドがいて、わりと自信を持って行ったら、カコーンってやられた。あそこからだね。

 田河 それまで都立は守備が主体だった。打つ環境がなかったから。それを有馬が逆転した。都立も「打って勝つんだ」と。

 有馬 城東へ赴任して最初は守備を頑張っていた。1年目の夏にベスト8まで行ったが、なかなか4強にいけなかった。米沢(貴光=関東第一監督)が選手の時には、関東第一に5回コールド負け。チームで5本も本塁打を打たれた。それで、このままじゃ無理だと思ってスタイルを変えた。

 田河 今でこそみんな打撃、打撃ってやってるけど、やっぱり有馬が都立の野球を変えたよ。みんなやればできる、勝てるってさ。

 福嶋 助けてもらったのも大きいよね。グラウンドのない学校が多い中、長嶺先生が世田谷工(現・総合工科)にいろんな学校を呼んでくれた。あそこのグラウンドはすごく広かった。自分のチームは1試合しかやらないのに、他の学校を5、6チーム呼んでくれて「みんな、練習試合をやりなよ」と言ってくれた。

 田河 有馬も城東の時、よく世田谷工で練習試合をさせてもらってたね。

 有馬 うちもやるところがなかったけど、福嶋先生に頼まれて小山台を教えに行った時は驚いた。立地はいいけど、周りの建物が倒れてきそうな感じがした(笑い)。あそこでやるのはすごいよ。

 福嶋 グラウンドも施設もないから、いっぺんに練習することがなかなかできない。「世界一長い自主練習」なんて言われるね。ポジション、体重、学年、能力とか、毎日あらゆる分け方でグループ練習をする。8人1組とか、10人1組で能力を高めていく。あれは有馬先生の城東高校の自主練習が基だよ。

 有馬 城東が2回目の甲子園へ行った年の夏は、福嶋先生の江戸川も4強に入った。ベスト4に2校都立が残って、勝てば「都立決戦」なんて言われてすごい盛り上がりだった。おれはスタンドで見ていたけどあの光景はすごかった。都立がメジャーになってきたと感じた。(つづく)

 (※1)99年夏の城東 決勝で池村投手が4安打完封し、駒大高を3-0で下した。東東京で都立校として初の甲子園出場。都立高として国立以来19年ぶりとなった甲子園では智弁和歌山に2-5で敗れたが、都立校として初得点を挙げた。01年には2度目の出場を果たした。

 (※2)キャプテン 70年代に人気を誇った、故ちばあきおさん原作の人気野球漫画。墨谷二中の野球部が舞台。1年からレギュラーのイガラシは天才肌で、3年で主将になるとチームに厳しい練習を課し脱落者が続出。練習中に部員が大ケガするなどで春の全国大会を棄権も、夏は全国制覇。

01年7月、甲子園出場を決めた城東ナインは茶川主将が優勝旗を持ちJR総武線で学校のある亀戸に向かう
01年7月、甲子園出場を決めた城東ナインは茶川主将が優勝旗を持ちJR総武線で学校のある亀戸に向かう