【前回】人の評価を気にしない「嫌われる勇気」を持つ。同時に自分の弱さ、劣等感を認めて成長の糧とする。周囲を思いやる「共同体感覚」を感じながら生きる-。アドラー心理学を実践している野球人に、佐々木主浩氏(48=日刊スポーツ評論家)がいる。

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 5月17日の東京地裁425法廷に佐々木は立った。覚せい剤取締法違反の罪に問われた被告から依頼を受けた情状証人。閉廷後、取材が用意されていた。

 指定の小部屋は、入梅前の蒸し暑さと人いきれが充満していた。佐々木はもともと汗かきで、手にハンカチを持って入ってきた。野球記者は少ない。片隅の見慣れた顔たちを見つけ「おぅ」とつぶやいた。7分強の問答が止まると「暑いね。もう大丈夫?」と言い、自然と輪が解けた。

 質問の軸は「なぜ証人を引き受けたのか?」だった。佐々木は「僕のイメージを考え、反対する人もいたが、親友のため。即決だった」と答えた。終わった後も「それにしても、佐々木は何で受けたんだろう」「リスクもあるだろうに」の声が方々から聞こえた。

 05年8月10日付の日刊スポーツに、佐々木の引退登板を報じる記事が残っている。投げた相手は11年後、法廷をともにした清原和博だった。

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 佐々木 キヨがいたからここまでこれた。意地やプライドなんて言葉では表現できないほどの気持ちでやってきた。最後まで負けるもんか! の思いで投げたかったから、キヨとやりたかった。

 85年夏の甲子園。対戦はなかったが、出入り口から特別扱いされるKKに対し、コンプレックスを感じプロ根性が芽生えた。開会式の日、清原のスパイクを偶然見つけて、砂をかけた思い出がある。

 佐々木 片や球界のエリートで、オレは東北の田舎者だった。でも今に見てろと。プロに入ったらオレが1番になる思いで、それからずっとキヨを意識してやってきた。

 清原もそのエピソードを覚えている。「ええ根性しとるヤツがおるな、と思ったな」。プロになっても佐々木は清原を追い求め(中略)すべてにおいて清原に負けたくない一心でプロ人生を送ってきた。

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 横浜担当だった当時の風景を思い出しつつ、もう1人のことが頭に浮かんでいた。

 横浜南共済病院の山田勝久名誉院長は、3年前の2月21日、肺がんのため81歳で死去した。肘、肩、股関節、ひざ。野球選手の故障に関するパイオニアで、佐々木は何度も助けてもらった。現役時代は孤高の人だったが、このドクターだけは別格。父親のように慕っていた。

 亡くなる2週間ほど前、先生が私に電話をくれた。「ソニーのテープレコーダーを買ったんだ。これから、佐々木君の野球人生を録音するのだ。ベッドの上でもできるからな」と言った。かすれ気味の声が気になったが聞かず、「なぜ録音ですか」と尋ねた。

 「カルテを最初から読み返しているんだが、日本のスポーツ医学に大きな貢献をした選手だ。我々を信じて委ね、手術のたびに強くなって戻ってくれた。成功体験として、勇気と自信を与えてくれた。何より、彼は優しい。あんなに繰り返して感謝を伝えてくれた患者はいない。体が大きくて、豪快に見えるから誤解されている。世間は、本当の佐々木君を分かっていない。いつか野球殿堂に入るとき、またユニホームを着るとき、このテープが資料になるはずだから」

 悟っていたのだろう。「オレはもう死ぬ。急がなくちゃいけないから。じゃあな」と一方的に切れた。忘れられない最後の会話になった。

 私の中で疑問はなかった。「証人・佐々木主浩」は自然な帰結だった。(敬称略)【宮下敬至】