一発のパンチですべてが変わるボクシング。選手、関係者が「あの選手の、あの試合の、あの一撃」をセレクトして語ります。1974年(昭49)4月にアジア人として初めてライト級を制した元WBC世界ライト級王者のガッツ石松さん(70=ヨネクラ)の忘れられない一撃は「ファイティング原田のエデル・ジョフレ戦の左ジャブ」です。

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▼試合VTR 1965年(昭40)5月18日、世界バンタム級王者ジョフレ(ブラジル)の9度目の防衛戦に、元世界フライ級王者の原田が挑んだ。王者は50戦無敗、17連続KO中で『黄金のバンタム』の異名を取った怪物。下馬評は圧倒的に不利だったが、原田は初回からラッシュしてペースをつかむと、4回には右アッパーで王者をダウン寸前に追い込んだ。5回に右強打を浴びて窮地に陥ったものの、6回から再びラッシュ。最終15回まで間断なく打ち続け、2-1の判定で2階級制覇を達成した。翌66年5月31日の再戦でも開始からの猛ラッシュで判定勝ち、2度目の防衛に成功した。

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原田さんのラッシュ、ラッシュ、ラッシュの連続だった。でも、やみくもに打っていたわけじゃない。実はとても理にかなったボクシングをしていたの。攻撃は必ず左ジャブから。それを2、3回と続けて打って、相手との距離を詰めてから右、また左。そのリズムでラッシュをくり返していた。よく『左は世界を制す』と言われるけど、その通りだと思ったよ。

しかも単に前に出てラッシュするだけじゃない。ジョフレが打ち気に出たところで、うまく間を取って体を振るウィービングで反撃をかわす。そして、また左ジャブから攻める。あの一連の動き、リズムはすごく参考になったね。だから自分も原田さんの動きを頭に思い描きながらジムで必死に練習したよ。あの戦法をまねすることで、ライト級のガッツ石松のスタイルをつくりあげたんだ。

ただオレはウィービングが苦手だった。だから足を使って相手の距離に入らないようにしたの。フットワークで自分の距離を保って、左右に動いて、攻撃は左から打っていく。この足の動きは当時の世界ヘビー級王者ムハマド・アリ(米国)をまねしたもの。そのアリも攻撃は左ジャブから。原田さんと同じだった。オレの最大の武器『幻の右』も、アリのパンチを研究して自分のものにしたの。

オレが世界ライト級王者になった頃の試合は、原田さんとアリのボクシングをミックスしたスタイルで戦っていた。フットワークだけだと凡戦になってつまらないけど、自分は足を使いながら、左ジャブを突いて、ラッシュもする。そして最後は幻の右。だから見ている人も面白かったんじゃないかなあ。

原田さんがジョフレと戦った当時、まだ世界タイトルマッチは珍しかった。だから日本人がどうやって外国人と戦うのか、もう興味津々で真剣に見ていたよ。ボクシングも野球も競技に関係なく、プロもアマも、選手には必ず師となる人がいて、その人を自分に見立てながら練習を重ねて成長していく。自分にとってはそれが原田さんであり、アリだった。偉大な2人のチャンピオンの長所を取り入れた。だからアジアで初めてライト級の世界チャンピオンになって、5度防衛できたんだろうね。

◆ガッツ石松(がっつ・いしまつ)本名・鈴木有二。1949年(昭24)6月5日、栃木県粟野町(現鹿沼市)生まれ。66年、ヨネクラジムに入門しプロデビュー。68年に全日本ライト級新人王。72年に東洋ライト級王座を獲得して2回防衛後返上。74年4月に、WBC世界ライト級王座を獲得して5回防衛。通算51戦31勝(17KO)14敗6分け。172センチの右ボクサーファイターだった。78年の引退後は俳優に転身。個性的な演技派として「北の国から」「おんな太閤記」「おしん」など人気テレビドラマや映画に多数出演している。映画監督、タレントとしても活躍。血液型O。

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