かつてない囲碁界のスターが現れた。芝野虎丸名人・王座(20)。昨年10月に史上初の10代名人になり、その1カ月後には、国民栄誉賞棋士の井山裕太(30)から王座を奪い、史上最年少2冠となった。その強さとは裏腹に、普段はあまりしゃべらずいつもニコニコしている。流れるまま、ありのまま、そして飾らない。脱力系で等身大の、ゆるふわ「トラちゃん」は、新たなタイプのヒーローだ。

★「トラちゃん」が

初めて名人になり、少し世界が変わった。メディアの取材が増え、日本棋院が発行する段位の免状に署名する公務が加わった。周囲の棋士や関係者の印象も変わったようだ。「あの無口なトラちゃんが、よくしゃべるようになったよね」。

とはいえ、当の本人にとって、おしゃべりはまだまだ苦手な分野らしい。それでもにこやかに言葉を選び、時に少し考えながら、インタビューは始まった。

「(露出について)囲碁に興味を持ってテレビや新聞などを見てくれる人が増えればいいと思います」

当然、勉強時間は削られる。10~20代の若手や、男性棋士と互角に戦える女流棋士、第一人者の井山に、その上でトップの実力を維持する先輩と、ライバルはひしめく。だが「囲碁にマイナスにはならない」と笑顔で言い切った。

165センチ、45キロのきゃしゃな体。「覚えてもらいやすいからいいかな」と最近思い始めた勇ましい名前のように、キバをむくのは大事な局面の盤上でだけだ。ただ、どんなに厳しい一手でも、石は静かに置く。珍しいタイプでもある。

多くの棋士は石を盤に響かせて打つ。手を考える時には扇子で頭をパンパンたたいたり、髪の毛をかきむしる。

「僕は昔からしません。動いても盤面にいい影響はありませんから」。対局中は背広のボタンすら外さず、静かに正座の姿勢を保つ。右手をわずかに動かしながら手順を考える。「動」のイメージが強い、かつての「碁打ち」像を覆した。

★徳勝龍に似てる

名人戦挑戦者決定リーグ戦をスルスルと勝ち上がり、無欲の獲得劇を演じた。獲得直後の共同会見の第一声は、「僕なんかでいいんでしょうか?」。先月の大相撲初場所で幕尻優勝した徳勝龍とよく似た発言で、報道陣を拍子抜けさせた。

初めての2日制の7番勝負。第1局は逆転負けだった。「何もかも初めてというせいにしようとしていましたが、ショックを引きずる感じで次の対局になりました」と振り返る。

しかも、第2局は張栩(ちょう・う)名人の地元台湾。「アウェー感、満載でしたね」。波に乗れない自分がいた。昼食で出されたのは山盛りのチャーハン。とても食べきれないので、あきらめて残した。対局前日はネット対局をこなし、ごはんは完食して盤に臨むルーティンを崩した。「まあ、いいかって感じで。いい意味で気分転換になりました」。吹っ切れて流れをつかむと、第2局から一気の4連勝。「すごいことをやっちゃった」。正直な感想だ。

★「流れで」棋士に

一躍「時の人」となった史上最年少名人は、初めはプロになる気はなかったという。「自分から進んでというより、流れでこの世界に」と笑う。

小3の時、2歳上の兄で、現在同じプロ棋士の芝野龍之介二段(22)が通い始めた、洪清泉(ほん・せいせん)四段(38)が主宰する道場について行った。プロになれると思わず、ただただ熱中していたら、いつしか兄を追い抜いた。「当時は学校の勉強が面白かった。だんだん囲碁に夢中になると、反比例して学校の成績が右肩下がりになったため、プロにならなきゃと思い、目指しました」。5段階評価で1~3が並んだ成績表の一部は、昨年11月に放送された日本テレビ系「嵐にしやがれ」でも公表された。

道場では、おとなしかった。「君はどう思う?」と、ある局面でコーチ役の先生から考えを求められ、泣きだした。以降、困った時には兄や先輩がフォローしてくれた。そんな「トラちゃん」だが、並外れた集中力を当時から発揮していた。

★いつまでも正座

「1人でいつまでも正座を崩さず、盤に集中して棋譜を並べていた。すぐ飽きてしまうほかの子と違い、ずっと打っていた。自分で何をしなければいけないかが分かっていたから、大きな道筋さえつけてあげれば、その先は自分で勉強していった」と、洪四段は述懐する。

棋譜を並べたり、局面の読みを鍛えるための詰め碁で基礎力をつける。さらにネット対局を1日30局(1局平均30分で換算して、約15時間)もこなすなど、実戦感覚も磨いた。AIを勉強に使う棋士もいるが、「こちらの新手は、情報として知っておきます」。

そんな精進の結果はプロ入り3年目、三段だった2017年に出始めた。「道場で基礎が鍛えられたし、プロ入り後も勉強を欠かさず力をつけたと思う」と自己分析する。竜星戦で初めてタイトルを獲得し、一気に七段まで昇段。新人王戦も制した。名人戦と本因坊戦で初めての挑戦者決定リーグ入りも史上最年少で果たす。53勝13敗で年間最多対局、最多勝を挙げ、一躍、注目され始めた。18年も46勝23敗、19年も52勝18敗と、3年連続最多勝に輝いた。

★勉強量減らさず

目まぐるしく環境は変わったが、タイトルホルダーになっても、集中して勉強する姿勢は変わらない。道場では、レベルに関係なく誰にでも胸を貸す。研究会にはチーズケーキを差し入れるなど、心優しい一面も変わらない。

「どこの世界でも同じかも知れませんが、囲碁の世界はプロになると勉強量が減る。タイトルを獲得するとさらに減る。でも、トラにはそんな心配はしていません。勉強は続けているし、名人になったからといって人が変わったわけでもないですから」(洪四段)。

★ギラギラしない

芝野は今でも「棋士に向いていない。いつやめてもいい」と思っている。だから7冠(囲碁界の序列は棋聖、名人、本因坊、王座、天元、碁聖、十段)全制覇とか国民栄誉賞といったギラギラした目標はない。「基本、今まで通り囲碁は面白い生活の一部。1局1局、次にやれることや、できることをこなしていく。その積み重ねです」。

肩の力を抜いた自然体こそが、新時代の名人の姿なのだろう。【赤塚辰浩】

▼芝野の師匠、洪清泉四段(38)

15年前、道場を開いた時には「日本一を出す」が夢でした。トラは、タイトルまで行ける逸材と思っていたが、こんなに早く夢が実現するとは思いませんでした。自分の育成方法が間違ってなくて良かったです。実は、名人を獲得した対局はドキドキして見ていられませんでした。勝ったのを確認して、誰もいないところでこっそり泣いちゃった。トラにはぜひ、世界一になってほしい。凱旋(がいせん)帰国する時は、空港までバスをチャーターして弟子と出迎えに行きます。私の次の夢、かなえてほしいですね。

◆芝野虎丸(しばの・とらまる)

1999年(平11)11月9日、神奈川相模原市生まれ。04年、父が買ってきた「ゲームキューブ ヒカルの碁3」で囲碁を覚える。08年、都内にある洪清泉四段の道場に兄と入門。14年、プロ(初段)に。17年の第26期竜星戦で初タイトル。昨年10月、史上初の10代名人に。同時に九段昇段。同年12月、王座を獲得して史上最年少2冠。来月開幕する第58期十段戦の挑戦者でもある。家族は両親、姉、兄、妹。趣味はカラオケで、「宇宙戦艦ヤマト」や、米津玄師、あいみょんの曲などを歌う。

(2020年2月9日本紙掲載)