横山やすし・西川きよし、ビートたけしも恐れたコンビ「Wヤング」を組んでいた元漫才師、平川幸男(本名・平川幸朗=ひらかわ・こうろ)さんが11日午後10時45分ごろ、大阪市内の病院で亡くなっていたことが12日、分かった。78歳だった。故中田治雄さん、佐藤武志(65)と2人の相方と、2代にわたって「Wヤング」をけん引し、今年4月に腰などの手術から復帰したが、その後は再び休養していた。葬儀は身内だけの密葬で行われる。

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人気絶頂での相方の死を乗り越え、70代に入っても約5キロを“徒歩通勤”していた平川さんが、昨年末からの闘病の末に力尽きた。平川さんは「最後は静かに」と強く望み、コンビ解散の発表を進めていた。その発表を直後に控えた夜、入院先で容体が急変した。

平川さんの長年の知人によると、11月に入って体調が悪化し、入院。状態を保っていたが、2日ほど前から調子は良くなかった。10年に最愛の妻を亡くした後も、気丈に活動を続けてきたが、闘病が長引くにつれ、稽古中に「しんどい」と、漏らすこともあった。

平川さんは、昨年10月ごろから足の痛みを訴え、今年2月に左変形性膝関節症、腰部脊柱管狭窄(きょうさく)症の手術を受け休養。4月に本拠地の大阪・なんばグランド花月で舞台復帰したものの、再び体調不安を訴えていた。

再休養に入ったころから「やることはやった」との思いを強め、静かな環境での療養を望むようになり、Wヤングの看板を下ろすと決意。佐藤は新喜劇出身で、妻も新喜劇の浅香あき恵であることから、新喜劇へ戻ることも決まっていた。

「Wヤング」の看板はそれほど大きかった。歌手志望だった平川さんは64年ごろ、役者志望の故中田治雄さんと組み、第1次「Wヤング」を結成。ボケとつっこみが瞬時に入れ替わる上方漫才に新風を吹き込むスタイルで、75年に第10回上方漫才大賞を受賞した。ビートたけしが「何年やっても追いつきさえしない」と白旗を上げるほどの技量を誇ったが、漫才ブームを目前にした79年10月、中田さんが急死。やすし・きよしが代わってブレークした。

平川さんは吉本新喜劇で佐藤と出会い、第2次Wヤングを結成。13歳差ながら「同じ誕生日で運命を感じた」と言い、平川さんが懸命にリード。歌ネタ、ダンスを取り入れた新たな形を作り、「ちょっと聞いたあ~」などの持ちギャグも駆使して、吉本興業の看板コンビを“復活”させた。

佐藤は事務所を通じて「相方であり、師匠でもあり家族のような存在」だったとしのび、将来に向けて「喜寿、米寿、卒寿などの長寿祝い年で、なんばグランド花月ででっかいイベントをやって、悔いなく引退できればいいな」と話し合っていた思い出も明かした。

長男は演歌歌手の秋岡秀治。14年には歌手の夢をたくした長男と、デュエット曲「浪花の父子酒」も発売していた。【村上久美子】

◆平川幸男(ひらかわ・ゆきお)本名・平川幸朗(こうろ)。1941年(昭16)10月5日、兵庫県生まれ。歌手修業を経て中田治雄さんと出会い、64年ごろに第1次「Wヤング」を結成。75年に上方漫才大賞を受賞。中田さんの急死で漫才ブームに遅れたが、84年に佐藤と第2次「Wヤング」を組み、活躍。「ちょっと聞いたあ~」「えろうすんまへん」、小首をかしげる「へんなの」などのギャグも。レコード、CDも発売し、24時間耐久カラオケのギネス記録も作った。