90年世界選に臨む日本選手団。前列左から5人目に中野浩一、6人目に神山雄一郎、最後列には両腕を掲げる坂本英一の姿がある(本人提供)
90年世界選に臨む日本選手団。前列左から5人目に中野浩一、6人目に神山雄一郎、最後列には両腕を掲げる坂本英一の姿がある(本人提供)

かつてビッグレースの常連で、世界選手権にも挑んだ坂本英一(58・栃木・A級3班)の物語は中編を迎える。

父とともに見た中野浩一の猛ダッシュに感化され、ツッパリ少年の道を選ばず、競輪選手を志した。そして作新学院高の自転車愛好会で力を伸ばす高1の秋に、あるうわさを聞く。「コーチが『今度の記録会にすげえ中学生がくるぞ。お前ら、負けるなよ』って。でも、しょせんはド素人だろって思ってたよ」。

だが、しかし、その中学生はうわさにたがわぬ強さだった。1000メートル独走タイムが、競輪学校(現・選手養成所)の合格へ当時の目安になる1分11秒台からそう遠くなかったのだ。「オレは1分21秒ぐらいだった。後で走った中学生は16秒か15秒。みんなも『うそっ!?』って」。

90年前橋世界選を控え記念撮影に応じる坂本英一(右)と神山雄一郎(本人提供)
90年前橋世界選を控え記念撮影に応じる坂本英一(右)と神山雄一郎(本人提供)

そのスーパー中学生は、競輪界のレジェンドになる神山雄一郎だった。高校の1学年下で入学すると、その一挙手一投足に目を奪われる。

「高1の雄一郎は浅黒く、やせっぽち。まるで『マッチ棒』。マラソン選手みたいに脂肪がない。あの時代はウエートトレなんかない。自然と体幹が強くなったのかな。毎日のように小山にある家から宇都宮まで、往復60キロ以上もロードバイクに乗った。通学前にも20キロぐらい乗ったらしい。地足が強いわけだ。『ツール・ド・フランスに出たい』と言ったこともある。お父さんは競輪選手を目指したが、その頃の年齢制限で断念したらしい。息子に自分の夢を託したんだろうね。作新の練習に何度も顔を出してくれた」。

国体を制し栃木県庁で表彰される作新高のメンバー(本人提供)
国体を制し栃木県庁で表彰される作新高のメンバー(本人提供)

神山の加入とともに、練習の強度が高まる。たとえばバンクの周回練習。全員が1列棒状で走る際は、先頭の動きが全体のペースを左右する。神山が先頭になると途端にペースが上がり、他は風圧を受けていなくても、引きずられるような感覚に襲われた。

また、神山の意識は細部に及ぶ。「大会に泊まりがけで行くでしょ。ご飯を食べると不思議に思えた。雄一郎は規則正しく箸を動かす。おかず、ご飯、みそ汁。そしてまた、おかず、ご飯、みそ汁。『順番よく食べると、消化に良くて栄養になる。お父さんの教えで三角食べです』と。寝るときは、早くふとんに入って静かにしている。『早く朝がこないかな。また練習できる』って考えて目をつぶるんだって。次元が違うよ」。

大会で好走できずに泣きだす坂本英一を神山雄一郎が笑顔で慰める(本人提供)
大会で好走できずに泣きだす坂本英一を神山雄一郎が笑顔で慰める(本人提供)

坂本は神山の熱にほだされるように練習に打ち込む。坂本がダッシュをみがけば、神山はさらに地足を強化する。インターハイや国体など多くの大会で好成績を残した。

「オレは高3の時に、スプリントで国体2位とインターハイ3位。雄一郎はポイントレースとか個人追い抜きで活躍したよ。一緒に出た団体追い抜きは、オレが途中で力尽きて負け。写真があるでしょ、雄一郎が笑いながら、泣いているオレを慰めている。まあ、お互いに自分にないものがあり、認め合っていた。こっちが先輩ぶることなく、仲良しだった」。

坂本は各大会での活躍が評価され、競輪学校(現・競輪選手養成所)59期生に技能試験免除で入校した。同総合1位になる倉岡慎太郎や、後にG1を制す小橋正義と浜口高彰らと力を付けて総合4位で卒業した。プロデビューは1987年5月。すぐの新人リーグでは、その5節目に迎えた6月の地元宇都宮で初優勝を飾った。先輩期との戦いが始まると、その初戦の9月小田原で逃げ切りVを果たす。だが、1年遅れて61期でデビューを控える神山の存在を考えると目先の勝利に満足できない。

「小田原は、人生で唯一の逃げ切り優勝になっちゃったよ。競輪というものができてなかった。まくりやイン粘りばかり。そんな戦法じゃ、後ろに付いてくれる先輩たちに嫌がられる。相手にも『どうせ、あいつはまくりだろ』って読まれていた」。

91年世界選ドイツ大会でレースの合間に休息する坂本英一(本人提供)
91年世界選ドイツ大会でレースの合間に休息する坂本英一(本人提供)

89年9月にS級へ初昇格するが、落車や失格もあり、しばらくの間はS級とA級を行き来した。それでも同時に挑戦した競技では、ダッシュがうなりを上げる。当時は世界選出場が懸かる全プロ競技のスプリントは、88年と90年、91年の3度も優勝した。

世界選スプリントでは、中野浩一が77年から86年まで優勝のV10に到達してから退き、翌87年は俵信之が勝っていた。坂本は88年ベルギーで大会初出場と同時に、日本勢12年連続Vの期待も懸けられた。結果は優勝したペイト(オーストラリア)に準々決勝で写真判定の末に敗れた。

91年世界選ドイツ大会に臨む坂本英一(右)と滝沢正光(本人提供)
91年世界選ドイツ大会に臨む坂本英一(右)と滝沢正光(本人提供)

89年フランス大会は出場ならずも、初出場の神山が本職でないスプリントで銀メダルを獲得した。坂本はこの快挙に驚き奮起した。翌90年は前編にも記した神山とのマッチアップを経て、世界選に舞い戻った。そして91年ドイツ大会を最後に世界選への挑戦を終えた。「やっぱり外国人を相手にしたら勝てなかったよね。勝ったこともあるけど。テクニックとか小細工とか通用しない。残り200メートルまでの、流しているスピードがワンランク上だから。地足も大事。地足と言えば、そうそう。海田和裕にもかなわなかった。競輪みたいにがんがんペースを上げられた」。

世界への挑戦は終えたが、収穫があった。「スプリントをやったおかげで、長く競輪選手をやれているかも。速さだけじゃない。力勝負したら勝てない相手にも、何とかしてやろうと思えたから」。

坂本英一(右)が吉岡稔真と91年世界選ドイツ大会へ向けて乗り込む
坂本英一(右)が吉岡稔真と91年世界選ドイツ大会へ向けて乗り込む

競輪に専念する日々が始まった。すでにG1デビューは神山に先を越され、その初出場の日本選手権(90年3月・平塚)でいきなり決勝4着と度肝を抜かれる。

「ずっとケガばっかりでさ、もどかしい思いがあった。でもね、オレも雄一郎のようにやってやるぞと。23歳のときかな。バンクで朝練習に始まり、午前中に街道、午後はまたまたバンクで乗り込みって。でも8日目にダウンして入院。お医者さんから『過労です、運動は控えて』って。競輪選手が運動を控えろって。もう自分が嫌になった。雄一郎はこんな感じの練習で強くなったのに。オレはなんて虚弱なんだろってね」。

奮闘する坂本英一
奮闘する坂本英一

挫折を味わっても、「雄一郎と目指すところは一緒」と思いは強いまま。神山は93年9月にオールスター(宇都宮)でG1初優勝を果たし、99年3月の日本選手権(静岡)でG1グランドスラマーに輝いた。坂本は、当時はG2格のふるさとダービーなどで何度か優勝争いを演じた。時に神山マークもある。しかし、差し切った記憶がない。「差せなかった。雄一郎が不発で、自分だけ着が良かったというのはある。雄一郎は脇の下をのぞいて、オレが付いてきてるか確認する。そして踏み直す。抜けないオレは、チクショーってね。その頃は関東は強い追い込みばかり。山口健治さんに戸辺英雄さん、高橋光宏さんでしょ。雄一郎にマークできるチャンスも少なかった」。 (後編へ)【編・野島成浩】

【競輪】ダッシュマン誕生 坂本英一「3位に入れば短距離に専念していいと」/敢闘門の向こう側(前編)

【競輪】戦いは続く 坂本英一「全身、合わせて30箇所は骨折しているね」/敢闘門の向こう側(後編)