かつてビッグレースの常連で、世界選手権にも挑んだ坂本英一(58・栃木・A級3班)の物語は中編を迎える。
父とともに見た中野浩一の猛ダッシュに感化され、ツッパリ少年の道を選ばず、競輪選手を志した。そして作新学院高の自転車愛好会で力を伸ばす高1の秋に、あるうわさを聞く。「コーチが『今度の記録会にすげえ中学生がくるぞ。お前ら、負けるなよ』って。でも、しょせんはド素人だろって思ってたよ」。
だが、しかし、その中学生はうわさにたがわぬ強さだった。1000メートル独走タイムが、競輪学校(現・選手養成所)の合格へ当時の目安になる1分11秒台からそう遠くなかったのだ。「オレは1分21秒ぐらいだった。後で走った中学生は16秒か15秒。みんなも『うそっ!?』って」。
そのスーパー中学生は、競輪界のレジェンドになる神山雄一郎だった。高校の1学年下で入学すると、その一挙手一投足に目を奪われる。
「高1の雄一郎は浅黒く、やせっぽち。まるで『マッチ棒』。マラソン選手みたいに脂肪がない。あの時代はウエートトレなんかない。自然と体幹が強くなったのかな。毎日のように小山にある家から宇都宮まで、往復60キロ以上もロードバイクに乗った。通学前にも20キロぐらい乗ったらしい。地足が強いわけだ。『ツール・ド・フランスに出たい』と言ったこともある。お父さんは競輪選手を目指したが、その頃の年齢制限で断念したらしい。息子に自分の夢を託したんだろうね。作新の練習に何度も顔を出してくれた」。
神山の加入とともに、練習の強度が高まる。たとえばバンクの周回練習。全員が1列棒状で走る際は、先頭の動きが全体のペースを左右する。神山が先頭になると途端にペースが上がり、他は風圧を受けていなくても、引きずられるような感覚に襲われた。
また、神山の意識は細部に及ぶ。「大会に泊まりがけで行くでしょ。ご飯を食べると不思議に思えた。雄一郎は規則正しく箸を動かす。おかず、ご飯、みそ汁。そしてまた、おかず、ご飯、みそ汁。『順番よく食べると、消化に良くて栄養になる。お父さんの教えで三角食べです』と。寝るときは、早くふとんに入って静かにしている。『早く朝がこないかな。また練習できる』って考えて目をつぶるんだって。次元が違うよ」。
坂本は神山の熱にほだされるように練習に打ち込む。坂本がダッシュをみがけば、神山はさらに地足を強化する。インターハイや国体など多くの大会で好成績を残した。
「オレは高3の時に、スプリントで国体2位とインターハイ3位。雄一郎はポイントレースとか個人追い抜きで活躍したよ。一緒に出た団体追い抜きは、オレが途中で力尽きて負け。写真があるでしょ、雄一郎が笑いながら、泣いているオレを慰めている。まあ、お互いに自分にないものがあり、認め合っていた。こっちが先輩ぶることなく、仲良しだった」。
坂本は各大会での活躍が評価され、競輪学校(現・競輪選手養成所)59期生に技能試験免除で入校した。同総合1位になる倉岡慎太郎や、後にG1を制す小橋正義と浜口高彰らと力を付けて総合4位で卒業した。プロデビューは1987年5月。すぐの新人リーグでは、その5節目に迎えた6月の地元宇都宮で初優勝を飾った。先輩期との戦いが始まると、その初戦の9月小田原で逃げ切りVを果たす。だが、1年遅れて61期でデビューを控える神山の存在を考えると目先の勝利に満足できない。
「小田原は、人生で唯一の逃げ切り優勝になっちゃったよ。競輪というものができてなかった。まくりやイン粘りばかり。そんな戦法じゃ、後ろに付いてくれる先輩たちに嫌がられる。相手にも『どうせ、あいつはまくりだろ』って読まれていた」。
89年9月にS級へ初昇格するが、落車や失格もあり、しばらくの間はS級とA級を行き来した。それでも同時に挑戦した競技では、ダッシュがうなりを上げる。当時は世界選出場が懸かる全プロ競技のスプリントは、88年と90年、91年の3度も優勝した。
世界選スプリントでは、中野浩一が77年から86年まで優勝のV10に到達してから退き、翌87年は俵信之が勝っていた。坂本は88年ベルギーで大会初出場と同時に、日本勢12年連続Vの期待も懸けられた。結果は優勝したペイト(オーストラリア)に準々決勝で写真判定の末に敗れた。
89年フランス大会は出場ならずも、初出場の神山が本職でないスプリントで銀メダルを獲得した。坂本はこの快挙に驚き奮起した。翌90年は前編にも記した神山とのマッチアップを経て、世界選に舞い戻った。そして91年ドイツ大会を最後に世界選への挑戦を終えた。「やっぱり外国人を相手にしたら勝てなかったよね。勝ったこともあるけど。テクニックとか小細工とか通用しない。残り200メートルまでの、流しているスピードがワンランク上だから。地足も大事。地足と言えば、そうそう。海田和裕にもかなわなかった。競輪みたいにがんがんペースを上げられた」。
世界への挑戦は終えたが、収穫があった。「スプリントをやったおかげで、長く競輪選手をやれているかも。速さだけじゃない。力勝負したら勝てない相手にも、何とかしてやろうと思えたから」。
競輪に専念する日々が始まった。すでにG1デビューは神山に先を越され、その初出場の日本選手権(90年3月・平塚)でいきなり決勝4着と度肝を抜かれる。
「ずっとケガばっかりでさ、もどかしい思いがあった。でもね、オレも雄一郎のようにやってやるぞと。23歳のときかな。バンクで朝練習に始まり、午前中に街道、午後はまたまたバンクで乗り込みって。でも8日目にダウンして入院。お医者さんから『過労です、運動は控えて』って。競輪選手が運動を控えろって。もう自分が嫌になった。雄一郎はこんな感じの練習で強くなったのに。オレはなんて虚弱なんだろってね」。
挫折を味わっても、「雄一郎と目指すところは一緒」と思いは強いまま。神山は93年9月にオールスター(宇都宮)でG1初優勝を果たし、99年3月の日本選手権(静岡)でG1グランドスラマーに輝いた。坂本は、当時はG2格のふるさとダービーなどで何度か優勝争いを演じた。時に神山マークもある。しかし、差し切った記憶がない。「差せなかった。雄一郎が不発で、自分だけ着が良かったというのはある。雄一郎は脇の下をのぞいて、オレが付いてきてるか確認する。そして踏み直す。抜けないオレは、チクショーってね。その頃は関東は強い追い込みばかり。山口健治さんに戸辺英雄さん、高橋光宏さんでしょ。雄一郎にマークできるチャンスも少なかった」。 (後編へ)【編・野島成浩】






























