新型コロナウイルス感染拡大の影響で、国内外のサッカーリーグ、代表の国際試合は中断、中止を余儀なくされている。 生のサッカーの醍醐味(だいごみ)が伝えられない中、日刊スポーツでは「マイメモリーズ」と題し、歴史的な一戦から、ふとした場面に至るまで、各担当記者が立ち会った印象的な瞬間を紹介する。

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強いはずだった。ただ、後になって思えば、それは思い込みでしかなかった。史上最強とも言われたザックジャパンは、たまったうみを抱えたまま集大成の14年ワールドカップ(W杯)ブラジル大会を迎えた。1次リーグ初戦、コートジボワール戦(14年6月14日)で、そのうみは痛みを伴って噴出する。それは会場の記者席にまで伝わっていた。

日本は前半16分にMF本田のゴールで先制した。1点リードの後半14分。ザッケローニ監督はFW大久保を投入しようとした。交代を待つ、その時、コートジボワールもエースFWドログバを送り込もうとしていた。横目で見た同監督は、大久保がピッチに入るのに待ったをかけた。ベンチも選手も動揺した。

ドログバが入った2分後の後半18分48秒に同点、同20分28秒には勝ち越しを許す-。悪夢の100秒間。

その背景は、大久保の投入で突き放すか。それともMF香川に代えて今野を入れる、もしくは長友を1列前の左MFに上げることで中盤の守備を安定させるか。そんな迷いだった。守備的で16強入りした10年南アフリカ大会後の4年間、日本は美しいパス回しから攻撃をするポゼッションサッカーへと理想を追い求めていた。ドログバが入ることを察知した瞬間、ザックの脳裏をかすめたのは守り切ること。だが、理想を捨てる決心がつかなかった。

「交代でチームの動きを良くしようとしたが、試みは失敗に終わった。積極的に、攻撃的にプレーすべきだった。残念ながら通常のプレーができなかった」

大久保の投入は勝ち越されてから。手遅れだった。冷静さを失ったチームは、秩序さえ崩れた。最後は1度も試したことのない、DF吉田を前線に上げてのロングボールでの攻撃しか手がなかった。

史上最強は妄想だった。我々、番記者もそう思い込もうとしていただけにすぎなかった。前年の13年コンフェデレーションズ杯は3戦全敗。同年10月の東欧遠征もW杯出場権を逃したセルビア、ベラルーシに完敗。その頃、終盤に身長のあるFWハーフナーを入れてロングボールでの攻撃を試そうとした。しかし理想に執着するあまり、ロングボールを蹴らずにパス回しを続けていたこともあった。

逆サイドの速攻を警戒し、ザッケローニ監督はサイドチェンジを禁じていたが、選手からの要望で解禁されたのはW杯1年前のこと。対話を重視し、Jリーグ得点王のFW大久保をW杯にサプライズ選出した際も長谷部主将に相談したほど。選手に信頼され、人望も厚かったように思う。

ただ「いい人」で勝てるほど甘くはない。11年アジア杯で優勝。13年10月の東欧遠征で不穏な空気が流れても、その1カ月後にあった欧州遠征で10年W杯準優勝国オランダと2-2で引き分け、当時1年間無敗でFIFAランク5位のベルギーには3-2で勝った。

収穫と課題、光と影、希望と不安-。両面あっても収穫が課題の解決にふたをし、根拠のない光と希望が影と不安を打ち消していた。

理想を貫きW杯は1勝もできずに敗退。選手から漏れた言葉は印象的だった。

「やれるという自信が、いつしか慢心に変わっていた。それに、誰も気づいていなかった」

ザックジャパン最後の日。ブラジルの合宿地イトゥで最後の会見を終えた同監督を、番記者みんなで見送った。それほど、報道陣からも愛されていた。弱々しい後ろ姿、ふと振り返り、見せた悔しそうな表情。あの光景が、今でも忘れられない。【益子浩一】