5月31日はサッカー2002年ワールドカップ(W杯)日韓大会の開幕20周年となる。日刊スポーツでは「2002年W杯 20年後の証言」と題して、当時のキーマンたちが語る秘話などを4回にわたり連載する。第1回は日本代表を率いたフィリップ・トルシエ監督(67)。時に周囲と衝突しながら、日本をW杯初の決勝トーナメントに導いた濃密な4年間を振り返った。

トルシエ氏は98年9月に日本サッカー協会と日本代表監督に就任する契約を結んだ。日本が初出場したW杯フランス大会直後、日本サッカー協会の相談を受けたフランスサッカー協会のベルバック副会長が、推薦したのがきっかけだった。

トルシエ 日本からオファーが届いた時、私は1964年の東京五輪やパリで上映された数々の日本映画のことが頭に浮かんできた。魅力的で神秘的な東洋の国という漠然としたイメージだった。大勢のフランス人は親日で、日本に行く。そんな偉大な国からオファーをもらい、サッカー文化の発展に貢献できることは光栄だと思い、一切、迷いはなかった。98年W杯でフランスが優勝して、当時はフランスの指導者の評価が上がっていた。アーセナルのベンゲル監督の推薦もあり、日本協会も迷わなかったと思う。

W杯フランス大会で日本は3戦全敗で1次リーグ敗退。3試合で1点しか奪えず、世界との力の差を突きつけられた。開催国として掲げていた02年W杯の目標は1次リーグ突破。時間は4年弱。新監督に課せられたノルマは、とてつもなく高かった。

トルシエ 98年W杯の3試合。Jリーグのトップチームの映像を徹底的に見た。そしてW杯代表メンバーの23人、試したいと思った約30人を代表候補メンバーを呼んだ。自分が思っていたレベルより低いとか、がっかりしたということはなかった。

トルシエ氏は当時「黄金世代」と言われた高原直泰、小野伸二、稲本潤一らユース代表(20歳以下)と五輪代表(23歳以下)の監督も兼任した。A代表が下の世代の監督も兼任するのは初めてだった。

トルシエ 最初から世代交代を考えていたわけではない。ユース、五輪世代を任されたことで、より多くの選手を偏見を持つことなく見ることができた。最初は98年W杯代表の23人を優先したが、その後、少しずつ下の世代の代表をA代表に抜てきした。4年間はぜいたくな時間で、最初の2年間は実験の時期、02年W杯で代表メンバーが98年から大きく世代交代したのはあくまで結果論だった。

指導は厳しく、熱かった。生活も戦術も徹底して規律を重視した。練習中に顔を真っ赤にして怒鳴る姿から「赤鬼」というニックネームもついた。

トルシエ 私は根性論は一切信じない。メンタルで最も重要なのはプロフェッショナリズム、プロ意識だ。90分間集中力を切らさず、正しい判断をするためには、準備がすべて。例えばパイロットが多くのボタンのあるコックピットで操縦するには、完璧な知識と準備が必要だ。根性だけでは操縦できない。サッカー選手も同じだ。いくら根性があっても、完璧な準備、練習できていなければだめだ。そのためには自己管理を厳しく、練習態度や栄養や睡眠も大切だと話した。4年間、24時間、日本代表の選手だという責任と重みを理解してほしかった。その責任感に欠けた選手がいればゲキをとばした。

「トルシエ流」の指導はピッチの外にも及んだ。日本が準優勝した99年のワールドユース選手権(ナイジェリア)では、試合の合間を縫って選手たちと孤児院を訪問。アフリカの現実を体験させた。

トルシエ 先日、パリSGと契約延長したエムバペの会見を見た。政治的な話も理解していたし、しっかりした教育を受けている印象を受けた。真のトップ選手は社会常識がある。それはとても大事なことで、考える力、物事を相対的に理解する力になる。同じように異文化の経験も選手にはメリットがある。想像力への刺激だ。試合中、サッカーではとっさの状況判断を求められる。そのときどうするか。知らない世界での経験は、そんな想像力の選択肢を増やす。

代表強化のためには一切妥協しなかった。選手の招集や試合日程をめぐり、Jリーグやクラブ、日本協会と衝突を繰り返した。99年は南米選手権を含めてA代表で1勝もできず(4分け3敗)、00年には解任騒動もあった。

トルシエ 60人という前代未聞の人数をたびたび合宿や遠征に呼んだので、主力を招集されるリーグやクラブとの衝突は必然だった。試合結果やチケット売り上げも左右するからだ。ただ私は目の前の仕事に集中することだけを考えて、ストレートに伝えただけだ。何の計算もなかった。監督は結果がすべてで、その座にしがみつくつもりもなかった。問題が起きたら協会が解決すべきだった。

00年6月、日本協会の岡野俊一郎会長の決断で、02年W杯までの続投が決まった。そこから、代表チームの成績が好転する。ユースと五輪代表を融合した00年シドニー五輪で決勝トーナメント進出。その五輪代表とA代表を融合させて臨んだ同年アジア杯で優勝。さらに01年コンフェデレーションズ杯でも準優勝した。

トルシエ 最初の2年間は実験で、目標をW杯1年前のコンフェデ杯に定めていた。アウェーの試合を増やし、ホームの親善試合では強豪国を招待した。厳しい環境で強いチームと対戦した方が本当の強化になる。(0-5で惨敗した)アウェーのフランス戦(01年3月)はW杯への玄関口だった。過信していた選手たちにいい刺激になったし、敗因を分析して問題を解決するための情報を得る機会だとポジティブにとらえた。その頃は日本協会も私を信頼してくれていた。

02年W杯日本代表メンバーはユース、五輪世代が主軸になった。セリエAで活躍するMF中田英寿という柱もいた。

トルシエ 彼は当時、数少ない海外組で、最初の2年間は戦術的な練習にあまり参加できなかったが、特別な存在でチームの原動力だった。ファンタジスタとして他の選手とは違う役割を求められたが、守備も嫌がらずに貢献してくれた。他の選手たちも彼をリスペクトしていた。私と衝突することもほとんどなく、意見も一致していた。

W杯では1次リーグを2勝1分けで1位突破して、見事に目標を達成。決勝トーナメント1回戦でトルコに惜敗した。

トルシエ コンフェデ杯で準備ができていると確認できた。残る1年は細かいディテールを詰めるだけだった。W杯直前にはすでに達成感があった。やれることはやり尽くした。もうこれ以上はできないと。ベースキャンプの「葛城北の丸」(静岡)の環境も完璧で、母国開催の重圧を過剰に感じなかった。1次リーグ3試合は簡単ではなかったが、スピリットは体現できた。1位突破は予想していなかったが、ラッキーだったとも思っていない。

あの歴史的な快挙から20年。日本は今年、7大会連続でW杯出場を決めた。トルシエ氏の目に、今の森保ジャパンはどう映っているのだろうか。

トルシエ 今の日本代表にはスター選手はいないし、欧州CLで活躍している選手もいない。この20年で一番強いチームだとも思わないが、ドイツ、スペインと同じグループでも、懸命に戦えば奇跡を起こせるかもしれない。代表は今の日本のサッカーを反映している。プロリーグ創設から30年間の日本サッカーの発展の結果が、どこまで世界に通じるのか。今大会がターニングポイントになると私は信じたい。【首藤正徳】

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