日本代表MF守田英正(27=スポルティング)には転機となった試合がある。

金光大阪高2年だった2012年、流通経済大柏との練習試合で、完膚なきまでにたたきのめされた。当時の流通経大柏は青木亮太(現札幌)、ジャーメイン良(現磐田)を擁し、高校年代最高峰のプレミアリーグ日本一に輝いた強豪。あまりの強さに衝撃を受け「対戦したメンバーと一緒にサッカーをやりたい」との気持ちが芽生えた。

全国的には無名だった守田だが、付属の選手が進学する流通経大の門をあえてたたいた。中野雄二監督(59)は「守田はチャレンジ精神が旺盛。付属の選手たちが大学に上がる中で、この選手と一緒にやって勝たないとプロに行けないと、飛び込んできたんですよ」と振り返った。

金光大阪高時代は背番号「10」で攻撃的なポジションだった。大学に進んだばかりの守田について、中野監督は「守備はまったくやらない。献身的な動きがない選手でした」。今のプレースタイルから想像もできない姿。流通経大柏出身者が1年生からトップチームで活躍する中、守田は1年生チームでプレーしていた。

まだ粗削りな面もあったが、中野監督は守田の姿勢に注目した。ボールを受ける際、背筋を伸ばし、ピッチを見渡してプレーする姿に「輝く選手になる」と確信し、ボランチの転向を決めた。「守備はどちらかというと、相手に主導権を握られているケースが多い。相手の状態、試合の展開を読めて、かつ、自分の体のバランス、ステップワークに常に対応できる臨機応変さが必要。守田はバランスがすごく良くて姿勢が良かった。守備的な要素で使った方がもっと本人の良さが出るかなと」。

ボランチに転向し、2年の途中からトップチームでプレーする機会が増えた。その直後には「現代サッカーではサイドバックが重要。そこを経験した方が、将来的にボランチ、トップ下に戻すとしてもためになる」と右サイドバックで起用した。

「サイドバックは前後半のどちらかはベンチの前でプレーしますから、言いたいことも言えますよね。それだけ育てたかったということ」。試合中は名指しで怒ることが常。特に判断の部分で「なぜこのプレーをしたのか」と聞くことが多かった。答えに窮することはなく、いつもしっかりした意見を持っていたことが印象に残った。「守田は自分の理屈と意見を持っていた。それでいて、聞く耳も持っている。だから成長できたんでしょうね」。その後はセンターバックでも起用するようになった。

3年になると、ユーティリティー性もあり、大学選抜に選ばれるようになった。初めてプロのスカウトの目に留まったのは、大学3年の宮崎での全日本大学選抜の合宿。大宮との練習試合で、守田はセンターバックを務めた。川崎フロンターレのスカウト・向島建氏は大宮の攻撃陣をシャットアウトするプレーにくぎ付けになり「センターバックも普通にできる」と守田を追い掛けることに決めた。

守田自身も、この頃、「プロも夢ではない」と自覚が芽生え、私生活も変化した。今まで何げなく過ごしてきた中で、サッカーのために体のケア、食事など「体にいいこと」を真剣に考えて過ごすようになった。大学入学当初に頭になかった「守備」だが、ボールを奪う楽しさに気付く。4年になる直前のデンソーチャレンジ杯ではMVP。一気に多数のプロクラブの注目を浴びるようになった。

川崎Fとガンバ大阪が獲得に乗り出したが、本人は「日本で一番強いチームに行きたい」と川崎Fへの加入を決めた。中野監督は「ブラジル人選手が中盤にいる。外国人助っ人として獲得しているし、試合に出るのは簡単ではないよ」と現実的な話をしたが、守田は「このポジションを取る。このポジションを取ってこそ、初めて自分の成長につながる」と揺らがなかった。

大学時代からワールドカップ(W杯)カタールへ行くためにも海外に移籍したいと口にしていた。20年にJリーグ優勝に貢献し、ベストイレブンに選ばれた。21年からポルトガル1部のサンタクララに加入。今夏から同リーグの強豪・スポルティングに移籍し、欧州チャンピオンズ・リーグの舞台へとたどり着いた。中野監督は守田の有言実行に「うちの大学に飛び込んできたのもそう。上を見据えて難しいことに逃げ出さずにチャレンジしてきた。決して無謀な挑戦とは思わず、できると思っている。そこがすごいんですよ」。初めてのW杯でドイツ、コスタリカ、スペイン相手にどんなプレーを見せるのか。守田の大きな挑戦が始まる。【岩田千代巳】

◆守田英正(もりた・ひでまさ)1995年(平7)5月10日生まれ、大阪府高槻市出身。流通経大から18年に川崎F入り。1年目から主力として活躍して、同年9月にA代表デビュー。21年1月にポルトガル1部のサンタクララに移籍。今夏から強豪スポルティングに移籍。夫人はモデルの藤阪れいな。国際Aマッチ17試合出場2得点。177センチ、74キロ。