「オリンピックで何百億円無駄に使ってんだよ。エンブレムとかどうでもいいから保育園作れよ」(原文)。国会でも取り上げられた、16年2月の匿名ブログ「保育園落ちた」の一節である。17日に行われた東京都知事選の候補者5人による共同記者会見の論戦を聞いて、思い出した。

新型コロナウイルス対策に加えて、東京五輪開催の是非が論戦の主な争点になった。れいわ新選組の山本太郎代表は「中止にすべき。安全に開催できる保証はない」と断言。無所属の宇都宮健児氏も「専門家が困難と判断すればIOCに中止を働きかけ、浮いた予算はコロナ災害の被害者支援に充てる」と主張した。

本来なら2カ月後の開幕を控えて五輪歓迎の機運が高まっていたところ。それがコロナ禍で一変した。感染の不安、生活の糧を失う不満の矛先が、1年延期の追加経費3000億円超といわれる五輪にも向けられている。浮世離れの夢の祭典が、急に生活に直結する現実になったのだ。

目先の損得だけを考えれば、五輪は旗色が悪い。膨大な開催経費がかかるし、最大の資本である夢や感動は目に見えず、庶民の懐が潤うわけでもない。しかし、そもそも五輪は目先の利益だけで開催するものでもない。新しい社会、価値を創造する起爆剤になるのだ。それは64年の東京五輪でも実証済みだ。

その意味で2度目の五輪を何のために開催するのか、どんな未来が社会に実現するのか、具体的な展望が欠けていた。だから今「それでも五輪をやろう」という説得力のある大義が見えてこない。1兆3500億円と招致時から約2倍に高騰した経費をはじめ、これまでぼんやり感じていた違和感も、コロナ禍で顕著になった。

1年後の開催を実現するために簡素化と経費の透明化は当然、実行しなければならない。その上で東京都とスポーツ界は今こそ、それでも五輪を開催する具体的な意義を、丁寧に説明する姿勢が不可欠だ。都知事選の論戦はこれからが本番。早くしないと「1年延期で何千億円無駄に使ってんだよ」という、4年前と同じような庶民の声がどんどん大きくなってしまう。【首藤正徳】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「スポーツ百景」)