東京オリンピック(五輪)7人制ラグビー女子日本代表を目指す、女子ラグビーの大竹風美子(ふみこ、21=日体大)が30日までに、マネジメント会社「UDN SPORTS」とマネジメント契約を締結した。大学卒業予定の来春以降、日本女子ラグビー界では異例のプロ選手として活動する。

新型コロナウイルス感染拡大の影響で東京五輪の延期が決まり、自粛期間中に大竹は大きな決断を下した。

「コロナの影響で『当たり前が当たり前でないこと』に気づいた。一度は企業に就職してラグビーをすることを考えたが、より一層競技に集中したいと思った。プロ選手としてアスリートの価値を高めながら、女子ラグビーを普及させるためにチャレンジしたい」

国内の女子ラグビーは、プロ選手と社員選手が混在する男子とは異なり、代表クラスであっても企業で働きながら競技に取り組んでいるのが現状だ。大竹は19年W杯日本大会で8強入りした日本代表の活躍や、SH田中史朗らのラグビー普及活動を目の当たりにして気持ちが変化。ラグビーを通じて「競技普及や社会貢献もしたい」と考えるようになった。

日本オリンピック委員会(JOC)の就職支援制度「アスナビ」に登録していたが、今年5月にプロ選手になる意志を固めて登録を解除。中学時代から親交があり、陸上男子100メートルで9秒97の日本記録を持つサニブラウン・ハキームらが所属する「UDN SPORTS」とマネジメント契約を結ぶことを決めた。同社は、サッカー元日本代表の香川真司やバドミントン男子代表の桃田賢斗ら多数のアスリートが所属し、社会貢献活動にも尽力していることで知られている。

ナイジェリア人の父と日本人の母を持ち、中学時代は陸上の短距離選手として活躍した。ケンブリッジ飛鳥の母校でもある東京・東京高でも陸上を続けていたが、ひょんなことから楕円(だえん)球と出合った。高3の春、バスケットボールの授業中に突然、ボールを持ったまま走りだした。「女子特有のボールに集まって、ごちゃごちゃしているのが嫌で無意識のうちにボールを奪って走っていた」。ラグビーの起源とされる「ウェブ・エリス伝説」をほうふつとさせるような逸話だ。その光景を見た体育教諭でラグビー部コーチに競技転向を進められた。その時は関心がなかったが、全国高校総体の7種競技で6位入賞し、「やり切った」と達成感を得て陸上を引退。その数日後、16年リオデジャネイロ五輪で7人制男子代表が4位入賞した勇姿をテレビで目にして「めちゃくちゃ面白そう」と感じ、ルールも知らないラグビーにかじを切った。

17年1月に日本代表合宿に練習生として参加すると、その高い素質を評価された。172センチ、71キロの体格に7種競技で鍛えたパワーと50メートル6秒5のスピードが武器となり、才能は開花。18年1月に代表デビューを飾り、7月のW杯米国大会ではトライも決めた。18年ジャカルタ・アジア大会では優勝に大きく貢献した。五輪代表を目指すために、15人制ではなく7人制に専念する。

「これまで個人競技しかやってこなかったけれど、チームスポーツの素晴らしさが分かった。中学生の頃から『五輪に絶対に出たい』と言い続け、競技は変わったけど、五輪への強い思いは変わらない」

コロナ禍の影響で五輪延期が決まった直後は、都内の実家で何も考えられずにぼうぜんと日々を過ごした。チームから提示されたトレーニングメニューをなんとかこなすのが精いっぱい。代表合宿を年間200日以上してきた生活から一変した。4人姉妹の次女であり、家族とのたわいもない会話や父からダンベルと自転車型トレーニング器具をプレゼントされ、家族の支えが徐々に気持ちを前向きにさせた。

代表歴も4年目。今では中堅選手となり、日本代表の中心の1人へと成長した。競技を始めた時から記していた日記は10冊を超えた。日記を継続させるために「毎日最低3行」と決め、その日の出来事や印象的な言葉などを記している。リオ五輪では10位と結果を残すことができなかったサクラセブンズ。9カ月後の大舞台では「メダル獲得」を目標に掲げる。21歳の大器はラッキーカラーのオレンジ色のネイルを見つめて、こう言った。

「五輪が1年延期になり、各競技のアスリートはさまざまな思いや考えがあるはず。ただ、『私は私』。東京五輪はきっとこれまでにない特別な大会になるはず。アスリートの1人として、自分の夢に向かって真っすぐ進みたい」

日本女子ラグビー界のエースの挑戦は、まだ始まったばかりだ。