92年バルセロナ五輪柔道男子71キロ級金メダルの「平成の三四郎」こと古賀稔彦氏が24日、死去した。53歳だった。関係者によると、昨年からがんの闘病中で24日朝に亡くなった。

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「悔し涙ですよ。勝つつもりだったから」。90年4月29日、全日本選手権決勝。小川直也に一本負けした古賀さんは、大粒の涙をこぼしていた。76キロの体での体重無差別出場。誰もが「無謀な挑戦」と思ったが、本人は本気だった。東京都予選から勝ち上がり、本選でも100キロを超す相手を次々と退けた。そこには、2年後の五輪金メダルにも通じる柔道家としての誇り、強い信念があった。

「体の大きさなんて、絶対的なものじゃない」。強がりではない。高校時代から、東京・世田谷学園の大将として重量級選手を投げてきた。抜群の技のキレと強靱(きょうじん)な足腰、そして大きな相手をも恐れない勇気。俊敏な身のこなしで大木をなぎ倒す。「柔よく剛を制す」を体現してきた。

古賀さんならではの「美学」だと思う。「昭和の三四郎」岡野功さん直系の背負い投げは、高角度に相手を持ち上げ、畳にたたきつける豪快なもの。「見ている人が喜ぶから」という思いは、大きな相手を投げることにもつながった。

「令和の三四郎は誰か?」と聞いたことがある。ニヤッと笑って「三四郎は僕が最後。もう出てこないですよ」と答えた。圧倒的に強く、なおかつ魅了する。そして、人間としても深みがある。柔道の五輪金メダリストは数多くいるが、古賀さんほどオーラを発する王者は見たことがない。古賀さん自身のプライドが、体からあふれていた。

時代もある。古賀さんの頃は、世界選手権は2年に1回。全日本選手権に挑んだ90年は世界大会がなかった。今は毎年世界選手権がある上に、ランキング制導入で多くの階級別大会に出なければならない。講道学舎の後輩である大野将平らが全日本選手権に意欲を燃やすが、今の軽中量級の選手にとって無差別のハードルは高い。

小説「姿三四郎」が由来の「三四郎」は、小柄ながら大男を投げる柔道の代名詞。高校時代から「三四郎」の異名をとった古賀さんは、90年代に「平成の三四郎」と呼ばれた。1964年東京五輪をきっかけに導入された階級制で勝つと同時に、体重無差別だった時代の柔道をも追い求めた。五輪金メダル1個、全日本選手権準優勝、記録をはるかにしのぐ、永遠に記憶に残る「最後の柔道家」。不世出の天才であり、人間的な魅力にあふれる古賀さんだからこそ、早すぎる死が残念でならない。【荻島弘一】

◆三四郎 富田常雄の小説「姿三四郎」の主人公。実在した柔道家・西郷四郎がモデルと言われている。作品は多数の映画、ドラマなどの原作になった。三四郎は小柄ながら大きな選手を相手に奮闘したため、同様の選手は「○○の三四郎」と呼ばれることが多い。岡野功は「昭和の三四郎」、山口香は「女三四郎」と称された。お笑いコンビの三四郎は柔道とは無関係。

◆90年の全日本選手権 71キロ級の世界王者の古賀は2回戦で59キロ、3回戦で44キロ、準々決勝で79キロ、準決勝で32キロの体重差を克服して、4試合すべて旗判定で決勝に進出した。最後の相手は前年の世界選手権重量級2冠で大会連覇を狙う小川。体重で59キロ、身長24センチ差があった。当時の試合時間は準決勝までが6分で決勝は10分。準決勝までに体力を使い果たしていた古賀は、それでも粘りを見せて試合は7分を超えたが、最後は小川の足車で一本負けした。会場の日本武道館は健闘をたたえる歓声と拍手につつまれた。