アントニオ猪木がこだわった異種格闘戦 終着地ウィリー・ウィリアムス戦が残したもの

アントニオ猪木氏が新日本プロレスを旗揚げして、3月6日で50周年を迎えた。そこで猪木氏自ら名勝負とその秘話を語った2006年の連載「プロレスの証言者 アントニオ猪木~新日本と名勝負」(全15回)を3回分再録する。第3回は「異種格闘技戦の真実」。(2006年10月27日紙面より 所属、年齢など当時)

バトル

田口潤

<プロレスの証言者:アントニオ猪木~新日本と名勝負(3)>


世界一求めアリ、ルスカとも

アントニオ猪木は自ら創設した新日本のリングで、次々と「プロレス」の概念をたたき壊した。その象徴が異種格闘技戦だった。柔道五輪金メダリストのルスカ、プロボクシング世界ヘビー級王者のアリ…。プロレスに安住せず、格闘技の境界線を超えて戦い続けた。そこが他のプロレスラーと、猪木の決定的な違いである。なぜ彼は格闘技にこだわったのか。

猪木 オレはプロレスをしたくてプロレスラーになったわけじゃない。人気者になりたかったわけでもない。子供のころから一番大きくて強かった。だから世界で自分が一番強いことを証明したかった。曽祖父も怪力自慢でね。曽祖母の入った風呂オケをそのまま持ち上げて移動させたという。暴れ馬をねじ伏せようとして、馬に蹴られて死んだらしい。今思うとその遺伝子が大きいのかもな。

アントニオ猪木(右)と対戦するウィリー・ウィリアムス

アントニオ猪木(右)と対戦するウィリー・ウィリアムス

ルスカを2度までもリングに沈め、世界最強といわれたアリとも引き分けた。パキスタンで不敗の格闘家ペールワンの腕をへし折り、全米プロ空手の王者モンスターマンも失神させた。多大なリスクを背負いながら、猪木は「世界一」を求めて戦い続けた。そして、最後にたどり着いたのが「史上最強」といわれた極真空手だった。

80年(昭55)2月27日、日本武道館で極真空手のウィリー・ウィリアムスとの一騎打ちが決定した。極真空手は梶原一騎原作の劇画「空手バカ一代」、映画「地上最強のカラテ」で、格闘技ファンの圧倒的な支持を受けていた。その映画の中でウィリーは245センチ、130キロの熊と戦い勝利を収めていた。プロレス界に「猪木危うし」の声が広がった。

猪木(中央)のキックを受けるウィリー・ウィリアムス

猪木(中央)のキックを受けるウィリー・ウィリアムス

猪木-ウィリアムス戦は、単なる試合ではなかった。ともに「世界最強」を自負する団体の名誉をかけた戦争になった。極真サイドは「ウィリーのパンチ一発で猪木は死ぬ」「猪木のアリキックは子供だまし」と挑発を重ねた。これに対して新日本サイドが謝罪を要求するなど、遺恨を残したまま決戦を迎えた。

猪木 アリ戦以上に両陣営に不穏な空気が漂っていてね。試合前には誰かがオレを狙っているなんてうわさもあった。

ウィリー・ウィリアムスを攻めるアントニオ猪木(右)

ウィリー・ウィリアムスを攻めるアントニオ猪木(右)

リングの周囲を新日本と極真空手の関係者が取り囲む異様な雰囲気の中でゴングが鳴った。1回、ウィリアムスのショートパンチが猪木の頭部を襲った。猪木はアリキックで応戦した。2回に2人は折り重なって場外に転落。いったんは両者リングアウトで決着しかけたが、立会人の梶原一騎氏とレフェリーの協議の結果、試合続行が決まった。

4回、猪木はウイリーに腕ひしぎ逆十字固めを掛けたまま再びリング下に転落した。ここで両陣営のセコンドが乱入。大混乱のまま、4回4分24秒、両者リングアウトの引き分け裁定が下った。猪木はあばら骨にひびが入り、ウイリーは左腕じん帯損傷のけがを負った。何とも後味の悪い痛み分けに終わった。

ウィリー・ウィリアムスとの死闘を終え、控え室に座り込むアントニオ猪木

ウィリー・ウィリアムスとの死闘を終え、控え室に座り込むアントニオ猪木

当時、猪木の影響力は本人が考えていた以上に大きかった。テレビ視聴率は20%を超え、世間の注目度はプロ野球に肩を並べていた。勝敗がそのまま団体の盛衰に直結するような状況だった。もはや猪木が1人の格闘家として純粋に「世界一」を争うことは不可能だった。ウィリアムス戦でそれが浮き彫りになった。この一戦を最後に猪木は異種格闘技戦を封印した。その後、プロレスと格闘技は別々の道を歩む。

猪木 オレの次の時代の連中がプロレスと格闘技を分けてしまった。勝手に差別化して苦しんでいる。オレはプロレスも格闘技も一緒だと言っていたのに…。